取り留めもない

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舞台『聖なる怪物』

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STORY 

山川神父(板尾創路)は教誨のため週に2、3回刑務所を訪れている。死刑囚に宗教的アプローチで被害者への反省を促し、執行までの精神の安定を図る。
山川が新たに教誨を始めることになった死刑囚・町月(松田凌)は、かなり奇妙でマイペースな人間だっ た。山川はいつも通り奪った命について考え、反省するように説教するが、町月は「反省?僕がするわけがないでしょう。僕は『神』なのだから」と言うのだ。

時を同じくして、敬虔な信者の真知子(石田ひかり)の娘・舞花(莉子)が行方不明となり、山川は真知子の相談に乗ることになる。舞花は、オンラインゲームを通じて『神』という人物に呼び出された形跡があった。

それ以来、刑務所内にいる町月が予言した不可解な出来事が、山川のまわりで起きていく。山川を根本から試すような出来事が重なっていくことで、徐々に信仰心が揺らぎ、山川は葛藤する....。

舞台『聖なる怪物』公式サイト

REVIEW

聖なる怪物とは何か、ということを探索しながら観ていくのがひとつの見方なのだと思う。

自分自身を「神」と呼ぶ死刑囚の町月なのか、そんな彼と対峙する神父の山川なのか。最後までたどり着いた時、個人的にはそのどっちでもないし、どちらでもある、というかふたつが同一化していったとそう感じた。なぜそうなったのかは超自然的ではあるが。

山川も町月も人間である自分の力の限界を知ってしまったことがきっかけで、思考が参加してそれぞれが交わっていった気がする。無力さを受け継いでいくような感覚。この作品において人間は入れ物のように存在するだけで、その中身は全くブラックボックス。物語の進行上、「神」はいるのかいないのか、その「神」はどういうものなのか、「神」を否定したいのかなどいろいろ考えるけど、日本人感覚的に整理すると、「神」はそれぞれが信じるところにいつ、総ての「神」は否定されるものではないと思った。ただ、どれも正しく理解されてない、扱われていない、というのが山川や町月の苦悩に繋がっているというような、そんな感じ。

途中、ダニエル グルー監督の『神のゆらぎ』*1のように「神」の無力感に繋がるのかなと思ったけど、『聖なる怪物』はかなり「人間」にフォーカスされていたと思う。いくらキリスト教を取り上げていても、諦念が見え隠れするのが日本の劇作だなと思うところ。

最終的には町月にあった力が山川と舞花というふたつの魂に受け継がれたんだろうなと私は思った。そして、それらが今後善悪両極端に分かれることもあり得るなと。人間はままならない。とにかく良かった。もう少し考えたい。

 

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12日の深夜の追記、大事なところを書けていなかった。町月について何が起きていたのかほとんど明らかになってないが、私はこういうイメージ。

生まれた時からなのか、後天的なのかはわからないけれど、町月には超自然的な力が宿っていたというのは本当なんだと思う。6本の蝋燭を消したり、教会に現れたり、それ以外にも見せてくれた現象は確かに町月の力だった。だけど、彼はそれを何かの役に立たせることができていなかった。見習うべく「神」と呼ばれるものを見ても、自分のように現実に何か為すことは無いくせに、あれほどまでに人々の信心を得ている。なのに自分は何もない。それだけではなく何もできない。

例えば、恐ろしい殺人鬼を見つけることができても、その人物を改心させることは出来ない。

殺人鬼を食い止めようと思えば、殺すことしか出来なかった。その結末には他者を頼らない町月の未熟さにも原因はある。けれどそれ以上に、力を持つことの無力さを一番知っていたのが町月だった。

だから山川の言うように、もう少し時間があれば、町月が何を考え、何で苦悩し、どうすればいいかを導くことが出来たかもしれない。少なくとも、町月が残した何か超自然的な力によって山川は変わるだろうし、彼ならもっと人々に伝えられる気がする。

 

ただ、それは新たな信仰の対象が産まれることにとても近い。

 

それに対する舞花がどう生きていくのか。この点はまだ悩みどころ。


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