取り留めもない

映画や舞台の感想書いたり、たまに日記も

舞台『メサイア−暁乃刻−』

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STORY

昨日が死に、今日が生まれる。それが黎明 暁の刻--

”悠里淮斗”突然の失踪…。

白崎護は何も告げることなく忽然と姿を消した自分のメサイアに戸惑いを隠せないでいた。これはなんらかの陰謀か…。それとも自分の半身とも言える存在であるメサイアの裏切りなのか…。何があっても淮斗を信じ続ける護は、一嶋の制止を振り切って淮斗の行方を追う。例えそれが、その身の破滅を招こうとも…。

時を同じくしてチャーチのシステムがハッキングされ全てダウンする事件が起きる。有賀と加々美を中心とした捜査によりハッカーの正体が判明する…。その正体はこの世には存在しない魂。「ネクロマンサー」と呼ばれる人工知能であった。

サクラ新入生、御池・柚木・小暮、北方連合の諜報員養成組織「ボスホート」、志倉が率いる警視庁の新組織「キンダー」、そしてチャーチ科学捜査班。それぞれ思惑は複雑に絡みあい、悠里淮斗の失踪によって生まれた小さな火種は大きな炎となって再び日本を焼き付くそうとしていた。

すべて救えるのは…白崎護。ただ一人。

メサイア-暁乃刻-|ストーリー

REVIEW

世界が確実にメサイアに追いついてきている、そう思った。

以下ネタバレです。

悠里淮斗かいなくなった。それだけでも不安なのに、彼のメサイアである白崎護は淮斗不在のまま卒業試験を受けることとなる。卒業試験は総じて孤独なものだった。かつてのチャーチの卒業生、海堂鋭利と御津見珀も、司馬柊介と五条颯真も、互いにそこにいないメサイアを信じ、戦い、そしてサクラとなった。そう考えれば、護と淮斗もなんら変わらない。そのはずだった。でもそれは違った。淮斗は常に護とともにあり、おそらくサクラとなっても、他のサクラ以上に強いつながりをもって戦い続ける。共依存していた彼らが、自立などという分かりやすく安っぽい答えではなく、あくまで依存し続けるような答えを導き出したことに、心を鷲掴みにされた。例え、そこに淮斗の身体はなくともなんら問題を感じなかった。私はこれまで、淮斗の護への執着は火を見るより明らかでも、逆に護から淮斗への想いはそれほどでもないのだと、そう思っていた。けれど、護がいままでどれだけ淮斗に救われてきたか。今回の一件で明らかになった淮斗の救済は、おそらく氷山の一角で、これまでも、そしてこれからも護は淮斗によって命を助けられ、生き延びる。これ以上の依存はないと私は思う。鋼ノ章のあの衝撃とはまた違う、事実は残酷でも、当事者にとっては最良の物語だった。

 

肉体の死と意識の生

今回の一番の衝撃は悠里淮斗の肉体の死と、AI(人工知能)内での蘇生だろう。というようなことを書いて、全くありえなくないと思うようになったのは、確実に科学が進歩し、肉体と意識の乖離の幻想に疑いを抱く人が少なくなったからだと思う。私個人としては、幾ら崇高な意識を持った生命体でも、タンパク質などの脆く、いとも容易く破壊することのできる入れ物の中にあるという、克服し難いジレンマがあることに人間の美しさを感じる性分だから、単純にAIに意識を移したと言われても、そう簡単に物語として納得しないはずだった。けれど、私がこの話に人間の無謀さと純粋さを見出したところもまた、淮斗がなんの躊躇いもなく機械の中に終の住処を求めたことだった。つまり、淮斗は自分の肉体が死ぬことを別段大きな問題と考えておらず、護を救うために進んで自らの肉を捧げ、またそれでもなお護とともに生きようとしたことに、熱烈な生への渇望を感じ、この点においてどうしようもなく涙が溢れた。

今後、護は他の人間と同じように歳をとり死に近づいていく。一方の淮斗は肉体の衰えを知らず、ゼロとイチの世界が存在し続ける限り、その意識を保つことができる。護もそうなれば永遠に、と考えないことはないだろう。けれど、私はこれから先、淮斗が護にそのことを提案することはないし、護も望んだりはしないと思う。護にその時が来たら、淮斗は自分の手で本当の意味の終わりを手に入れる。あくまで、これは想像でしかないが。

 

散ルサクラ 残ルサクラモ 散ルサクラ

鋼ノ章で自らの手でメサイアである間宮星廉を殺した有賀涼。あれほどにつらいことはもうないのではないかと思われたのにもかかわらず、再び手にしたメサイアである加賀美の命。けれど、今回において有賀は加賀美を殺すという事実に動揺し、躊躇する。確かに、加賀美が裏切り者であったわけではない。それは入れ物として動いていただけ。それでもかつての有賀であれば、あそこまで心を乱されることはなかったのではないか、と私は思う。人間は様々な経験をすることで強くなるという一種の神話があるが、かつて人間らしい生き方をしていなかった有賀には、「人間的になる」ということが、むしろ彼の判断を鈍らせる。だだの殺人マシーンを作るだけならば、人間同士のつながりに固執するメサイアというものは必要がないし、むしろ諸刃の剣というものだ。現に、有賀はメサイアと心を交わすことで人間らしさを手に入れる代わりに、失ったものも多い。春の日の一瞬だけに咲いて、散っていくサクラになぞられた彼らは、やはり長命とは無縁なのかもしれない。だだその代わりに、生きることの喜びを感じることができるようになる。肉体的に強くなることと、精神的に強くなることは当然比例するとは限らないし、むしろ精神的に強い人は肉体的な強さにこだわらないというような、激しい信条を感じる。人間を手に入れた有賀と次第に歪みを見せ始めた加賀美の物語は何処にゆくのか、これからも楽しみである。

 

新たなサクラ候補生とテロリスト

新装版の文庫原作の特典で付いてきた冊子書き下ろしに書かれていた、新サクラ候補生たち。今回の話ではほとんど彼らのバックグラウンドに触れず、なにやら不穏な動きを見せて終わった。これは今後のシリーズ展開に大いに期待するのと、大切なのは今夏公開の映画『メサイア外伝−極夜 Polar­ night−』。

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今回の舞台作品では登場しなかった三栖公俊と周康哉が主役となり、暁乃刻より前の物語を描くということだが、周グエン衝吾*1という、おそらく周康哉に近い人物も登場したので、嫌でも期待値があがる。というのも、私は周康哉と彼の兄の堤嶺二の関係性や物語がとても好きだし、なんなら堤嶺二が先に電脳世界で生きていると信じている人間だから。そういうことで言うと、サリュートとDr.TENの今後にも目が離せない。ありきたりな考え方だけど、サクラと同じように彼らにも彼らの正義があって、それを懸命に貫くから美しいし、同時に苦しものだと実感させてくれるのがメサイアの世界。

ところでこの良さを何度も噛みしめるために、上演台本とかほしいです。

 

ゲネプロ動画

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「お前が居ないと世界は闇の中だ」「俺は永遠の夜を生き続ける」ってメサいワードであると同時に、ちょっと手を伸ばせばトゥルーオブヴァンプの世界だと思った。

東京公演千秋楽は配信予定

gyao.yahoo.co.jp

メサい曲紹介(護と淮斗のテーマ曲)

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独断と偏見で決定。 

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*1:ちなみに彼は日本人とベトナム人とのハーフらしい。東南アジアというだけで、人体実験のフラグを立てたいと思う。【出典】メサイア-暁乃刻- プロモーション映像 インタビュー映像 伊藤孝太郎-動画[無料]|GYAO!|アニメ

演者信仰というものについて

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特定の職業の人に憧れがあるわけではないのだけれど、演技をする人たちに対して、およそ自分自身がこんなに熱烈な感情を持っていたのかと思うくらい、羨望の気持ちを抱くことがある。決して芸能の仕事をしてちやほやされたいからではない。彼らが、禁欲的にも素の自分を偽り、性格や容貌を変えて、これというキャラクターになることを生業にしているからである。完璧に別人格を演じている人を美しいと思うことが、彼らへの羨望の発端である。職業でなくても演じることは誰でもできる。だから舞台を降りても、俳優の人格を生きてる一部の人たちに、私は並々ならぬ好感を抱く。なぜなら私にもこうと見られたいという人格があって、自堕落な「自然体」などなんの価値もないと思っているからである。

舞台上にいる俳優たち見てると「ああ、自分と同じだ」と思えるのに、一旦そこから降りてしまったら「異なる人種だ」と感じる。そう感じるのは、舞台で表現する人々が一種の普遍化されているからということもあるだろうが、私にとっては降りた瞬間に「演者信仰」から解かれてしまい、演じていない瞬間の人たちに、自分の指向性との重なりを感じられないためである。

そういったことを踏まえて、何が言いたいかと言うとつまり、誰にでも演じることはできると言った手前、自分自身にも理想を目指すことに厳しくなってほしいという、完全に自戒である。客観的に見て今の自分はなにもかも中途半端でみっともない。反自然的な人格を目指す一方で、オタクの脳直結なモノの言いようを愛しているのでそういうことはやめたくない。ついては、オタ記事専門の別人格を育成する必要があるなと考えた朝。

舞台『孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―』

STORY

箕浦はまだ三十歳にも満たない青年だが、白髪のその容貌はまるで老爺のようであった。
黒髪が全て真っ白になった一夜。その恐怖の体験を、箕浦はひとり語り始める―――。
ある日自宅で最愛の恋人・初代が殺された。自宅の鍵は全てかけられており
侵入の痕跡は見当たらない。
箕浦は過去に自分に想いを寄せていた、学生時代の先輩である諸戸を疑う。
初代の復讐を誓って探偵業を営む友人・深山木を訪ねるが、
彼もまた白昼堂々怪死を遂げてしまった。
事実は箕浦の予想を遥かに上回る残酷さとおぞましさをもって彼らを巻き込んでいき・・・。

『孤島の鬼―咲きにほふ花は炎のやうに―』 | Nelke Planning / ネルケプランニング

REVIEW

原作は未読、2015年も未見。前作の評判を聞いて観に行った。

乱歩作品の奇っ怪なことを言ってそうで、実は勧善懲悪っぽいところと、悪に酔う雰囲気をあまり好ましいと思わないけど、『孤島の鬼』は「鬼は誰なのか」という命題を追求することに徹底し、人間の汚さをフォーカスしていて良かった。と、今さら私が江戸川乱歩について語っても仕方がないので、舞台作品としてどう見たかということを少しだけ。

去年は江戸川乱歩の没後50年ということで、『パラノイア★サーカス*1』など多くの乱歩作品が舞台化されてたけどそれは今年も続くようで。この他にも『お勢登場*2』なんかも上演されてますね。やっぱり人気がある作家はすごい。それに比べて谷崎潤一郎は、まあいいです。いやでもせっかくなので小話を。友人に昔「谷崎潤一郎はイカ臭い」と言われたことがあり、それを聞いた瞬間めちゃくちゃわかるってなって笑ったことがあるんですけど、そういう「っぽさ」で言うと、江戸川乱歩は「おばあちゃんの箪笥の中に入ってた香水の香り」というか、少し埃っぽいけれど、それを嗅ぐだけで並々ならぬ高揚感を感じられる気がします。

そんなところで、この『孤島の鬼』。美しい容貌を持つ青年、その青年を愛するお坊ちゃん、そして青年が愛する女性など分かりやすい登場人物がおり、殺人が起きる。それを語るのは「私」。まだ三十歳にも満たない青年だが、かつて「鬼」を見たことにより髪が真っ白になってしまったと語り出す。あくまで、私の話という物語なので、どちらかというと「私の語る理想の物語」に近く、まさにナルシシズムの中で悲劇を演じていた。意識的か無意識かはわからない。でも、そこには「こうであってほしい過去」が見え隠れする。私の物語の中で動き回る「箕浦」は私によって過去を暴かれ、哀しみを繰り返えさせられる。箕浦を愛する「諸戸」は、私の振る舞いによって何度も苦悩させられる。普通であれば、箕浦に暴力的とさえ思える愛情を抱える「諸戸」や、人間に対する憎しみを持った「丈五郎」が「鬼」と呼ばれるべきなのかもしれないが、実の意味で「私」が「鬼」の形のひとつのオム・ファタールとして存在する物語のように思えた。それをリアルにするためにも、叶わない想いに胸が張り裂けそうになる諸戸の苦しみをもっと切実に伝えてくれても良かったなと思う*3。それと、個人的には「私」には彼自身の美意識の中で生き続けて居てほしいので、最後の私の慟哭は、諸戸への後悔のように感じられて乱歩との解釈違いと思ったりもした。ただ、徹頭徹尾理想を実現するまでには至らないところが「私」というの人間の愚かさという感じもあったのでそれも良いかと思う。

「私」を演じた佐藤永典は美しく、銀に近い白髪も不思議と馴染んでいた。彼が話すたびあたりには妖しさが漂い、男性から親愛の情を向けられるのもわかる。一方で、石田隼の演じた「箕浦」は愚かではあるが人間としての純粋さが滲み出ていて、そんなところに諸戸は惹かれたのではないかと思うので、「私」の妖しさは彼自身が幾多の経験を経て手に入れた魅力なのだろう。先に書いたように「諸戸」に執着と狂気が自然ともっと馴染んでいるようだと良かったと感じるのは、「丈五郎」のようなまさに江戸川乱歩の世界の住人のもとで生きていた意味を考えてしまうからかなと。丈五郎を演じた河合龍之介は一種の形式美が感じられてとても良かった。全体的に活動弁士のような話し方をする人が多いから、それならより滑らかにそれが妥当であることを証明するように音を発したほうがなお良し。

演出で面白いなと思ったのは、舞台上に横断するように机がいくつか橋渡ししてあって、その上を歩いたり、下をくぐったりするところ。特に井戸の横穴のシーンでは、最近読んでいた洞窟閉じ込められ事件の記事*4を思い出してしんどくなった。生死がかかった極限状態でもすがらない高潔さということを表現したかったのかもしれないけど、この物語が「私」の語ったものである時点でそれも疑わしい。終演後も薄暗く陰鬱な舞台を見つめながらそう思った。

 

2016年に観た乱歩原作作品

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映画『たかが世界の終わり』

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STORY

愛が終わることに比べたら、たかが世界の終わりなんて

「もうすぐ死ぬ」と家族に伝えるために、12年ぶりに帰郷する人気作家のルイ。母のマルティーヌは息子の好きだった料理を用意し、幼い頃に別れた兄を覚えていない妹のシュザンヌは慣れないオシャレをして待っていた。浮足立つ二人と違って、素っ気なく迎える兄のアントワーヌ、彼の妻のカトリーヌはルイとは初対面だ。オードブルにメインと、まるでルイが何かを告白するのを恐れるかのように、ひたすら続く意味のない会話。戸惑いながらも、デザートの頃には打ち明けようと決意するルイ。だが、過熱していく兄の激しい言葉が頂点に達した時、それぞれが隠していた思わぬ感情がほとばしる――――。

映画『たかが世界の終わり』公式サイト

REVIEW

なにも伝えないことをこんなに丁寧に伝えた作品が未だかつてあっただろうか。迫る自分の死を告げるため、家族に会いにゆく。ただ単純に、切実に、一種の義務であるかのように。12年会っていない家族。どんな顔で話していただろうか。そんな表情で笑っていただろうか。寧ろ初対面の義姉・カトリーヌとのほうが話がスムーズに進んでいく。おかしいと思う気持ちと、当然だと思う心。皆、役割通りに、期待通りに行動しようとしてしまう。一体、自分はどんな息子だったのか、母親だったのか、どんな兄だったのか、妹だったのか。皆、そこに答えがあると勘違いして、虚像を演じてしまう。そこに幸せがあると信じて。無駄話の得意な女性たちとは異なり、田舎に留まった兄はとても不器用だから、家族を演じることが耐え難いと感じてしまうし、だからこそ「なぜ」と弟に問うところまでいっても、その理由を聞くことができるほど強くない。彼らが家族であるために、彼は家を後にした。母の、兄の、妹の、義姉の愛を一心に受けて。

元々がジャン=リュック ラガルスのフランス語の劇作という今作。随所に会話劇の要素があって、映画の中に演劇を観たり、演劇の中に映画を観たりして不思議な感覚だった。正直に言うと前半はとても退屈な会話の応酬で、どうしたものかと思ってしまったが、そこはグザヴィエ・ドラン。中盤から後半にかけて、彼らしい音楽の使い方、カット割り、そこから見える心理描写。そして、最後のシーンへの盛り上げ方。圧倒的だった。

「クロード」は回りくどい言い回しや独特なレトリックも多くて、初見でついていくのはちょっと大変なんだけど、戯曲の核心部分は、たった一言で言い表せる様なとてもシンプルなもので「膨大な台詞の果てにそのたった一言に辿り着けるかどうかを役者に課す」という何とも刺激的な作品

四月の備忘録その一。 | ほさかようの「ネガティブの微笑み」 - 楽天ブログ

これは脚本家・演出家のほさかようさんが『クロードと一緒に』について書いている部分なのだけど、『たかが世界の終わり』に関しても全くこれだなと。フランス語の戯曲の特徴なのか、偶然か。どちらにしても、このシークエンスが美しくて目眩がした。

まさに世界の終り/忘却の前の最後の後悔 (コレクション現代フランス語圏演劇)

まさに世界の終り/忘却の前の最後の後悔 (コレクション現代フランス語圏演劇)

  • 作者: ジャン=リュックラガルス,日仏演劇協会,Jean‐Luc Lagarce,齋藤公一,八木雅子
  • 出版社/メーカー: れんが書房新社
  • 発売日: 2012/03
  • メディア: 単行本
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 そして何と言ってもグザヴィエ・ドランの映画はサウンドトラックが最高。

It's Only the End of the World (Original Motion Picture Soundtrack)

It's Only the End of the World (Original Motion Picture Soundtrack)

 

公式サイト

gaga.ne.jp

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狂った夢を見ました、ただの日記です

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娼婦に落とされて、その雇い主からはヒトとしてじゃなくてモノ(所有物)みたいに扱われ、そのくせ放任主義だから大丈夫かなって逃げたらものすごい勢いで探される(ただし暴力は介在しない)っていう夢を見た。自分が作り上げた夢のひとつとして、自分自身は確かにこのシチュエーションに愛を感じていて、さすがに自分でも狂ってると思った。逃げている時は楽しいし、捕まった時はめっちゃ愛だし、連れ帰られてる時は「次はいつ逃げよう」って考えてて。何もかもが可笑しかったけど、楽しすぎて三度寝した。っていう話。

『柔道少年』は物理的にめちゃくちゃDステだった。

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judo-shonen.dstage.jp

Dステ20th『柔道少年』は韓国演劇を翻訳した作品。真っすぐでわかりやすいコメディだし、物語として考えさせるような複雑さもない。私がそういうものを好んで観ることがないから、作品のテイスト自体がとても新鮮だった。キャラクターはすべて役者本人の名前で登場し、舞台上にいないD-BOYSの名前やエピソードも次々と飛び出す。だからといってそれが話の腰を折るようなことはないが、その人たち本人を知っているとより楽しめる。これは濃度の濃いDステだなと思った。それと同時に、むしろ主役の宮崎秋人はD-BOYSとしては新しい方なのだと思い出すこととなった。

思い返せば『夕陽伝』で初めて彼はDステの舞台に立った。「D-BOYSじゃないのにDステに?」とあまり思わなかったのは他に劇団Patchの二人がいたからかもしれない。だから確か上演がスタートする直前に宮崎秋人のD-BOYS加入が発表されたときの方が驚いた。そしてそのことが、彼や彼のファンにどんな感情を与えるのだろうということの方が心配だった。私自身はそのころ彼を「ぺダステに出てる人」という風にしか思ってなかったけど、少なくともD2がD-BOYSと名乗るようになったときの複雑な気持ちはわからなくなかったから。今年になって公開されたインタビュー*1でも彼は、「(加入が決まった時に)すぐにうれしいと思えなかった」と言っている。その人物が諸々を受け入れ、それを自分の目標までの推進力にしていく過程にどんな思いがあったのか。残念ながら私にはわからないから、おおよそを邪推することしかできない。でも、普段は明るく振る舞う裏で、葛藤があったのだろうということはわかる気がする。そんな彼が、物理的にめちゃくちゃDステを感じる舞台の真ん中にいることがなんだかとても不思議で、同時に嬉しく、そしてまさしくこれが彼の「再デビュー*2」なのだなと思った。ちなみに、この点について宮崎秋人のオタクと深く語り合いたい気持ちがある。

彼の演じた柔道少年も、初めは柔道に対して意固地になっていたけれど、自分の越えなくてはいけない壁に気がついたときに、次第に物語が開けていくようなキャラクターだから、そういう意味でも彼自身に近いんじゃないかなと邪推してみたり。語弊を恐れず言えば、宮崎秋人の「普通さ」という魅力が際立つ役だった。

荒井敦史はもう見た目かっこいいが過ぎるほどなのに、中身が驚くべき程に可愛くて途中私は何回か死んだ。韓国語で女の子が男性に言う「おにいちゃん」は、血のつながりがなければ僅かでも下心のある呼び方なので、呼ばれた瞬間ニヤけるくらいで問題ないと思う。いや、そのくらいしないとかっこいいが過ぎるんだって。

ミッチェルこと三津谷亮は、自分自身のキャラクターがこの作品でどんな効果をもたらすのか理解していて、笑いの惹きつけ方と押さえ方を心得ているところがプロだな~という感じだった。いや、れっきとしたプロなんですけど。

いけぴは「ここ(下北沢)は池岡亮介の庭かな?」っていうくらいリアルな笑いを、舞台上のあらゆる場所で構築していて、観客はいつの間にか彼の手中にいるみたいな不思議な感覚になった。彼の纏っている空気感がスズナリとぴったし。

この作品は、今やってることに飽きたところからがまた面白くなりそうというか、今後いかようにもアドリブ入れられそうだし、入れてほしいと中屋敷さんも思ってるだろうから、最初の方と最後の方で観るのじゃ楽しみ方が違うはず。私自身もこれからもっとこの作品を自分のものにして、はしゃぎまわる彼らを観たいので下北沢に通い婚しま~す。

あ、三津谷さんお誕生日おめでとうね!

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追記

 イマジネーションのくだりは2/10のネタでした。

 

寒いから前後不覚

「〇〇の話をします」から始まるのってなんかとてつもなくダサくて頭悪そうなんじゃないかって思えてきました。そんな今日は信条の話をします。

高校の頃、いわゆる欧米のエモ*1を齧ってたので目の周りは一周アイラインで墨を引かれてて、服も真っ黒で、多分それなりに異様だったと思います。あまりにもクソ田舎なんで、そんな顔しても人とすれ違う回数が少ないのが救いでした。それ以前から、なんだか自分の良しとするものが歪なことには気がついていたけど、なぜグロテスクで気味が悪いものに惹かれたのか、いかんせんそれを言語化できなかった。そんな時に読んだのがこの本。

ゴシックスピリット

ゴシックスピリット

 

この中でゴシック的なものを愛する人たちの嗜好性を下記のように表現していた。

物心ついた頃から怪奇なもの怖いもの暗がりにあるものが気になって仕方なかった。夜とか墓場とかお化けとか怪談とか、そうした想像が興味の大半を占めていた。

集団生活と共同作業が苦手だった。幸い今のところ徴兵制はないからよいが軍隊に入れられたら耐えられないだろうとよく考える。

平穏が続くというのが信じられない。いつも死のイメージばかり考えていた。

死は膜一枚で隔てられているだけと思っていた。今もそう思っている。

ダークな感じ、陰惨なもの、残酷な物語・絵・写真を好む。

ホラーノヴェルもホラー映画も好きだ。

時代遅れと言われても耽美主義である。いつもサイボーグを夢見ている。肉体の束縛を超えたい。
両性具有、天使、悪魔、等、多くは西洋由来の神秘なイメージを愛する。

金もないのに贅沢好み。少女趣味。猟奇趣味。廃墟好き。退廃趣味。だが逆の無垢なものにも惹かれる。

情緒でもたれあう関係を嫌う。はにかみのない意識を嫌う。顔を合わせれば愚痴を言い合い、ハードルをより低くして何でも共有してしまおうとする関係を見るたび、決して加わりたくないと思えてしまう。自らの個の脆弱さは身に滲みて知っているつもりだが、だからこそ、最初から最低レヴェルで弱さを見せ合い嘆き合おうという志の低さが気に入らない。

欲望そのものはよいとしても野卑で凡庸な欲望の発露を厭う。主に性に関する場合が多いのだが、「不倫」だの「結婚願望」だの「恋の駆け引き」だのといった予断に満ちた語は性の形をひたすらありきたりに陰影なく規格化していて腹立たしい。いくらでも異様な発露を見せうるはずのことを常に決まりきった形で安く語る言葉が嫌悪されてならない。

自信満々の人が厭だ。弱者だからと居直る人も厭だ。「それが当たり前なんだから皆に合わせておけ」と言われると怒る。はじめから正統とされているものにはなんとなく疑いを感じる。現状の制度というのが決定的な場面では自分の味方でないように思える。いつも孤立無援の気がする。

気弱のくせに高慢。社会にあるどんな役割も自分には相応しくない気がする。

毎朝、起きると、また自分だ、と厭になる。自分ではないものに変身したい。それは夜に生きる魔物であればよい。

そこに善悪は問題でない。美しく残酷なこと。きりきりと鋭く、眠るように甘いもの。ときにパンク、ときにシュルレアリスティック、またときに崇高な、暗い魅惑に輝くそれがゴシックの世界であると私は信じている。

引用が長い、というのはひとまずおいておいて、私は昔から自分自身に価値はないと思っていた。心が萎えれば萎えるほど、生きていると感じられたし、そういう感覚を味わうためにわざと人々が嫌悪するものを知ろうとし、見ようとした。不当な扱いを受けても、それは自分自身が本当はこの世界と適していないのだと思えば仕方ないと諦められたし、どうも言い分が理解できない時には、頭の良し悪しに限らず、この人とは作りが違うから分かりあえないのだと考えた。だからこそ異種としてなるべく理解し合いたいと思うし、相手にもそれを望んでいる。人間は基本分かりあえないのだから、絶えまぬ努力が必要なのだ。そう思っている。他人に過度な期待をしない。世界を変えたいなんて途方もない夢は見ない。基本は苦しみながら、その中で至上の喜びを見つけながら生きていくことに価値を感じる。

というような自分の信条を一行ぐらいでまとめて話したい。

関連書籍

ゴシックハート (立東舎文庫)

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