取り留めもない

映画や舞台の感想書いたり、たまに日記も

行間しか読んでいないメサイアシリーズ

個人的にメサイアシリーズが続いています。小説と映像作品の感想は書きましたが、総論的な感想を時系列で。話が続いているので、映像の方も若干追記します。

メサイア 警備局特別公安五係 (講談社文庫)

メサイア 警備局特別公安五係 (講談社文庫)

 

 

Messiah メサイア -漆黒ノ章-(映画)

脚本:伊勢直弘、山口ヒロキ 監督:山口ヒロキ

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互いにメサイアを失った司馬柊介(浜尾京介)と五条颯真(太田基裕)がメサイアとして自覚をもち、信頼し合う過程を描いた作品。上演順としては舞台の銅ノ章が先だけど、単体として観ても「メサイアとは」ということが分かるようになっている。

小説やほかのスパイを扱った物語と違うのは、通常国家を脅かす事件を解決することが物語の主軸になることが多いのに対し、メサイアシリーズではスパイであるサクラたちがどのようにして成長し、スパイとして生きていく術を学んでいくかという過程を明らかにすることがメインに進んでいくことだと思う。その違いがこのシリーズの魅力だし、これだけ愛されて続いている理由なんだろう。

漆黒ノ章では、元検事でデータに基づいたルール人間の柊介と元保育士で人間味溢れる颯真と出会って、メサイアとして行動することでタイプの違う二人がお互いに分かり合い、分かち合っていく流れを視聴者も体験することで、この物語に入り込ませるような展開になっていた。ただ、初めはぶつかり合っていた真逆のタイプの二人が信頼し合うようになるというのはよくある話だし、そのほかのスパイっぽい要素はこれ単体で観るとわからないところだらけなので、映画だけ見た人は舞台も観ようとなるかどうかは分からない。実際に私にはなかなか訴求されないまま、舞台を観るまで一年以上かかった。

今後メサイアシリーズで登場する、警察省警備局特別公安五係のサクラである海棠鋭利(松田凌)や御津見珀(小野健斗)、指導係の一嶋晴海(中原裕也)、そして評議会というテロリスト組織メンバーの三栖公俊(中村龍介)、周康哉(玉城裕規)が一応は出揃う。今のところ銅ノ章までしか出てきていない桧賀山純也(池田純矢)が怖くてかっこいい。

 

Messiah メサイア -銅ノ章-(舞台)

脚本:伊勢直弘 演出:トクナガヒデカツ(X-QUEST)

小説版で主役になっていた海棠鋭利とそのメサイア御津見珀がどのようにして互いのメサイアとして成長していくかということを描いた作品。

「絶対に死なない」ジンクスを持つ鋭利と「メサイアが必ず死ぬ」という珀という因果で結ばれたメサイアとして、半ば強いられた関係のもとに命を預けるために信頼し合うようになる。鋭利と珀はスパイではなく普通の生活を送っていたとしたら、友達の中の一人止まりだったと思う。必要がなければ互いの心には踏み入らないだろうし、それでも十分楽しく上手くいく間柄であったはず。サクラになってからも、どれだけ人間らしい生活をしていても、完全な絶望を経験し、自分だけを信じるサクラたちは本来他人を必要としていない。独りであっても生きていけるように訓練されてきた。そういう者たちにとってメサイアのシステムは一方で救いであり、もう一方では自らの唯一の弱みにもなりかねない。何故なら、信頼と裏切りは表裏一体であり、信じれば裏切られる可能性が生まれるから。それはまるで、人を殺すことを許されたサクラたちに架せられた重い十字架のようなシステム。決してサクラたちを捨て身にはさせないシステム。

上記のようなことを前提とすると、初めのうち鋭利は珀個人を受け入れられないというよりも、メサイアという繋がりをなかなか認められなくて苦しんでいるように思えた。でも互いのことを知っていくうちに、鋭利は自分が家族を失ってサクラになったのも、こうしてまだ生き続けていることも少なからず珀と珀の因果が関係していて、総ては運命のようなもので繋がっているのだと考えるようになった。そこからメサイアの珀を受け入れることになったのかなと。ただ一方で、メサイアの物語の中では偶然よりも必然が優先されるというか、運命さえも誰かの意志で司られているように進んでいく節もあり、結局のところその根源が見えてこない。

行間しか読んでないことをさらに書き連ねます。サクラは、自分が生きるためにメサイアを生かす。自分が救われるためにメサイアも救う。 自分が生きているのはメサイアが生きているから。自分が死ぬときはメサイアが死ぬとき。だから、生きなくてはいけない。そういうものなんだと思う。そこで「死なないジンクス=死ねない呪い」を背負った鋭利は、必然的にメサイアの死を待つ珀を生かす存在になった。だから珀も鋭利を受け入れた。つまり運命という名の共依存なんだろうなと思う。

 

春、生まれた日にあびた祝福を、忘れない人はいない。

だから毎年桜は咲いて、私たちを2秒だけ透明にする。

『もうおしまい』(抜粋)(最果タヒ著『夜空はいつでも最高密度の青色だ』)

 

桜に自分たちの命を重ねるサクラたち。彼らは桜を見る度に自分自身、そしてメサイアの生と死を考える。そこからこの詩に結びつけるのは安直な感じも否めないけど、小説と銅ノ章、漆黒ノ章を観たところで固まった上記メサイアのイメージにこの詩がピッタリだと思った。なので勝手にこれをメサいポエムと認定する。ただし、今後この名称を使う予定はまあない。

サクラVS評議会の争いは、まだ単純に善(国家)VS悪(テロリスト)の様相を呈している。ただ、一嶋係長は一つの正義ともう一つの正義の戦いだということに気がついているような気がした。周の不気味さと、三栖のまっすぐさはこのあとが気になる案件。

箇条書きメモ

  • 珀の「ナイスだ」はお兄ちゃん譲り 
  • 映像のダサさが半端ない
  • 演出がちょいちょいダサい
  • BGMもちょいちょいダサい
  • キメ台詞のかっこ良さが浮いている(残念)
  • 若手俳優界で動ける二人(松田凌&池田純矢)の殺陣は最高

 

夜空はいつでも最高密度の青色だ

夜空はいつでも最高密度の青色だ

 

 

Messiah メサイア -白銀ノ章-(舞台)

脚本: 毛利亘宏 演出: 御笠ノ忠次

漆黒ノ章で絆を強くした柊介と颯馬が、メサイアとして一緒に過ごせる卒業までの最後の一か月間と卒業試験を描いた作品。

柊介と颯馬の周囲には常に疑惑と喪失が渦巻き、その山を乗り越えるたびに盲目的な相手への信頼が強くなっている。この作品の中でも柊介はサクラやチャーチに対して、その存在の意義や自分たちの使われ方に関して疑問を投げかけ続ける。けれど、それはもともとサクラとして生き返った時に初めから定義されていたことであり、存在しないはずの自分たちの唯一の存在理由でもある。そのことを分かっていても、ふと人間的情緒のある思考で自分の状況を考えるとやるせなくなる。そういう何も信じられないことがデフォルトである中で、「信じても良い」と与えられたメサイアを信頼せずにいられるだろうか。一縷の望みをかけてすがってしまうのではないだろうか。実際、柊介と颯馬も何度となくお互いを疑って、疑心暗鬼になった。けれど、最終的には「メサイアの罪を裁くのはただ自分だけ」と拳をあわせ、最後まで信じ生き抜いた。鋭利と珀のような共依存ではなく、盲目的な信頼を強めているのが柊介と颯馬という感じ。

もう一方で、評議会の物語も進んでいく。前章までは善(国家)VS悪(テロリスト)の構図だったところが、評議会の内部や評議会メンバーの関係が明らかになっていくと、単純に悪ともとらえ難く、革命という形を目指したひとつの正義の形なのではないかという考え方にもなってくる。その中で、三栖と周の関係は特に重要で、近しい人の死から完全な平等社会を目指すいわゆるステレオタイプのテロリスト三栖と、自分を認めてくれない父親(政治家)に対する反抗心でテロリストとなる俗人的な周は一見水と油で相容れない。周は三栖も含めて常に周囲を試している。どうして他人を信じられるのか。信じて何の意味があるのだ、という自分自身の疑問を他の人を使って確認している。そんな周に対して、三栖も初めのうちは互いの利害で付き合っていた。けれど次第に二人は自分自身に足りない部分を補いあうようになった。この二人はメサイアのような二個体間の信頼関係ではなくて、徐々に一個体を目指して集約していく感じの繋がり。とりあえず、お互いが必要であると気付けて本当に良かった。

 

散ルサクラ 残ルサクラモ    散ルサクラ

 

 暗渠と言われるデータバンクにおいてあった一嶋係長からの卒業するサクラへのメッセージ。決してポジティブではないこの言葉さえも、これからサクラとして生き抜く覚悟を決めた彼らにとっては、終わりを常に忘れずにいることを確認できる言葉として大切なのかもしれないなと思った。いろいろあって当分の間は柊介と颯馬のコンビを見ることができないというのは寂しいけれど、それも含めて本当に卒業してしまった感じがしてそれも一興かなと。

箇条書きメモ

  •  演出が前作と結構違う、なんだかソリッド
  • 第三舞台っぽい客席を向いた語り
  • 物語の事件性やアクションよりも心情描写が細かい
  • 司馬柊介役の浜尾京介の活動休止前最後の舞台作品であるということも若干影響があったんじゃないかなと邪推(とても良い)
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Messiah メサイア -紫微ノ章-(舞台)

脚本: 毛利亘宏 演出: 御笠ノ忠次

新たなサクラの誕生と評議会の崩壊が描かれた作品。

白崎護(赤澤燈)は孤児院で幼少期を過ごし、そこで同じく親の居ない悠里淮斗(廣瀬大介)と春斗(北村諒)の兄弟と出会った。しかし、ある時三人で行った海での事故で春斗だけが死に、春斗はまだ生きていると信じる淮斗は家に引きこもり、春斗の死の責任を感じた護はそんな淮斗と一緒に暮らしながら公安四係で国のためにために戦っている。自分のせいで春斗が死んだと自認する護は誰一人大切な人を守ることができない、むしろ周りが不幸になっていく自分に対して、それならば居ない方が良いと死を望んでいる。これがおそらく護の絶対的な絶望であり、そんな中で生きているのは淮斗のため。一方の淮斗は唯一の家族である春斗を失い、心の支えは春斗が死んだ原因を作ったと同時に、悲しみの共有者である護だけ。そんな状況で、淮斗は護にだけは幸せにも不幸にもなってほしくない、ただずっと一緒に自分のためだけに生きていてくれればと思っている。自分が生きていれば護も生きていくしかないということを無意識に理解して、この世界に護を縛り付けるために生きる。

この作品でサクラ候補生となる護と淮斗について考えることは、「メサイア」とか「スパイ」とかいうことはほとんど関係なく、どの世界にも通じる人と人の絆について考えることに近かった。というのも、基本的にこの世に未練のない者だからこそサクラになりえるのにも関わらず、初めて影青ノ章で護と淮斗を見た時に抱いた「孤独ではないこの二人に絶対的な絶望なんてあったのか」という疑問を紐解く時に、これが特殊な世界の物語であることは問題でなかったから。ただ、護と淮斗は鋭利と珀のように「お互いのために」という前向きな共依存ではなく、そのままでいたら心中でもしかねない償いと束縛の共依存状態で、その状態を脱して生に向かって歩き出せたのはサクラとして生きることを決めたから。二人にとって生きる理由を他にも見つけるということが重要だったのだと思う。

一方の評議会は創設者でもあった堤貴也(井上和彦)の北方連合への裏切りによって解散。その前に評議会から抜けていた三栖と周は命を狙われていたが、評議会解散によって起こった北方連合との争いに巻き込まれてく。自らの身を守るために刑務所に入っていた元評議会メンバーで堤の息子の堤嶺二(平野良)と周は母親の違う兄弟であることが明らかになり、政治家の父親を恨んで生きていた周は困惑する。同時に評議会もその終わりを迎える。

散々サクラについて書いたけれど、本当のところ主軸は紫微ノ章は評議会の話であり、それぞれの正義の話だった。堤の思想を信じて戦い続けていた工藤祐(松本寛也)は最期は自分の信念によって戦い、そして死んだ。そこにテロリストの破壊的衝動はみじんも感じられず、自分自身の描いた理想世界の正義のために生きていたのだとわかる。彼は自分を頭脳だと理解し、自分の一命を全うした。三栖のような強さはないということを分かったうえで評議会の清算をやり終えた。初めは面白キャラだと思っていただけに、工藤の最期はとても美しかった。また、堤嶺二も評議会に囚われた可愛そうな人だ。チャーリーとライアンが死んだ時、すでに堤嶺二は自らの死を自覚したのだと思う。だからこそ周にも接触したし、今まで明かされていなかった兄弟のつながりを頼った。そして三栖と周。二人は自分たちの正義のために評議会に入り、評議会を抜けて、公安四係に入った。行動を共にはするが三栖と周の思惑は全く異なる。それでいて一緒にいるのは、「ベターハーフ*1」というより「片割れ」だからかなと思う。自分にはない部分を感じる相手であり、ない部分だからこそ大切にしたいというかそういう感じ。

 

箇条書きメモ

  • マザーグースのハンプティダンプティの歌を引用してくるあたりとか、結構好き。そういうのもっとほしい
  • 今回のテーマは個人と組織
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Messiah メサイア -影青ノ章-(ドラマ)

脚本:守口悠介、横山あゆみ、山口ヒロキ 監督・編集:山口ヒロキ

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鋭利と珀も監督生として後輩の指導にあたる、白崎護、悠里淮斗、有賀涼(井澤勇貴)、間宮星廉(染谷俊之)のサクラの新候補生が中心の新章。白崎&有賀、悠里&間宮で仮のメサイアを組むことになる。

この影青ノ章は舞台を観た人以外は対象として作られていないというのが正直な感想。というのも、あらたなサクラ候補生の紹介がほとんどないのはまだ良いとして、護と淮斗について何も説明しないまま進むことで、スパイというのにメサイア(仮)が嫌でごねて、しかもホログラムの弟に語りかける淮斗がただのメンヘラに見えてしまう。ネタバレになるところもあるし、鋭利と珀も映像ではほとんど過去に触れていなかったから仕方ないといえば仕方ないけど、有賀と間宮は舞台にも出ていなかったわけだし基本的な説明が不十分。何となくメサイアを組まされたサクラが、何やかんや事件を解決して仮のメサイアとわかり合い始めたところで「やっぱりメサイア変えます」って言って変わってしまって、一体何が表現したかったのかよくわからない。舞台を観てきた人にとっても、情報がなくて物足りないんじゃないかと思う。

それは元評議会の三栖と周も同様で、前に映画しか観てない人(以前の自分)にとっては、そもそもなんでこの二人が公安にいるのってなるだろうし、こっちも新しい登場人物多すぎる。舞台を観た人にとっては、公安四係に収まった二人がどうなっていくんだろうと思ったら、周は始終塞ぎ込んでるしもやもやする。

というか、映像になると一気にサラッとしてしまうのはなんでだろう。確かに映画とかドラマで妙なリアリティを求められるよりは、演劇として「これはこうです」という前提がある方が表現しやすい世界だとは思うけど。つまるところ、「メサイア」というものの面白さや悲しさをほとんど感じられなかったことが腑におちなかった。

メサイア?影青ノ章? [DVD]

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Messiah メサイア -翡翠ノ章-(舞台)

脚本:毛利亘宏 演出:西森英行

鋭利と珀の卒業ミッションがテーマの作品。この章から公演回数も増え、地方公演も行われた。

原案の小説はそれこそ鋭利と珀の卒業ミッションが描かれていたけれど、それとは異なる展開。鋭利と珀については銅ノ章のところでウザいくらいに書いたように、この二人において死ぬ死なないの裁量は互いの力量にかかっている。というか、もはや鋭利と珀にとっては信頼と裏切りは関係のないテーマのような気がする。だからなのか、卒業ミッション自体はあまり重要ではないというか、それよりもすでにチャーチを出てからの生き方を考える方が大切というか。珀は絶対に死なないメサイアである鋭利の死と生に執着してその最期を見届けようとしてするだろうし、いくら珀がそう願っていても死なない呪いをかけられた鋭利は珀の最期を見ることになるだろうなと。そういう未来への心構えをするための卒業ミッションという感じ。ところで芹沢(寿里)に対する鋭利のけん制は「スーパーウルトラ所有欲」という感じがしてすごい。相手が敵対する組織の人間だからというより、自分のメサイアと血のつながりがあって自分よりもメサイアのことをよく知っている人物をこの世から消し去りたい一心という気概が感じられる。それをブロマンス的にも考えられるけど、やっぱりそれよりも純粋にメサイアを失うことへの恐怖なのかなって。その潔癖な関係が逆に底知れぬ本能的な生存欲を感じさせている。

結局のところ翡翠ノ章は、芹沢を殺す決断を下すことで本当の意味で珀に絶望と孤独を与えて、同時に鋭利と珀におけるメサイアを完成させるということがテーマなのかなと思ってるんだけど、実際のところこの部分はあまり掘り下げられていない。かと思ったら急に鋭利が「死んでしまいたい」って言いはじめて、その衝動ってなんだろうなって。当然そんな状況になったことがないから「死の偽装」をしたことが最終ミッションクリアにどんな影響があるのか想像もつかない。自らを死んでいると偽っている間に、本当に死んでしまいたいと思うかどうかなんて全く分からない。それをいったい観ている方はどう咀嚼すればいいんだろう。キェルケゴールの言うように、

かくて絶望、自己におけるこの病、は死に至る病である。

キェルケゴール著 斎藤信治訳『死に至る病岩波文庫(P39,L1)

なのだとすれば、自らの死を偽装することは絶望に値することなのだろうか。すでに絶対的な絶望を経験しているのがサクラに絶望耐性がないはずはない。それなのに故意に自らが自らに課したミッションで絶望するだろうか。超人的な想像力がないのでこの点は詰んでしまった。

クライマックスで鋭利が自分の生きる意味について語りかけるところは小説に近いなあと思った。小説『メサイア』の中での苦悩は大きく分けて二種類あると思ってて、一つは孤独に生きることの苦悩。もう一つは、生きる意味を考えることの苦悩。舞台になって、さらにメサイアへの信頼に対する裏切りの苦悩が追加されたというのが個人的な認識なので、総じて原点回帰したなあという感じ。鋭利が苦しんで珀が支えてる構図とかも繰り返しを意味しているようだった。改めて鋭利と珀の卒業を実感です。

評議会はいまやもう残党でしかなくて、サクラは北方連合との直接対決の様相を呈している。評議会の正義も好きだっただけに悲しいなあ。当然だけど三栖と周の話を楽しみたい人は翡翠では満足できなかっただろうなと思う。三栖が相当周のこと考えてるってことは十二分にわかるけど。

箇条書きメモ

  • 珀は総愛され
  • 鋭利は若干メンヘラ
  • 志倉がC-CLOWNに聞こえるから困る
  • 馬鹿なので時系列が跳んでたのをあともう少し妥当な感じでまとめてくれると嬉しかった
メサイア―翡翠ノ章― [DVD]

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死に至る病 (岩波文庫)

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Messiah メサイア -鋼ノ章-(舞台)

脚本:毛利亘宏 演出:西森英行

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サクラ候補生の有賀と間宮を軸に、新たな敵との戦いを描いた作品。

白崎護は「こいつ(悠里)の全部は俺の全部」と言ったり、悠里淮斗もあからさまに高野に嫉妬したりと、この二人の話でもあるんだけど、それよりなにより「メサイア」というシステムの醍醐味っぽいのは有賀涼と間宮星廉の物語。

はじめのうち、間宮は有賀に「人を殺すってどんな感じ?」とか「俺たちは人を殺すことを許されているがそんなのおかしいと思わないか?」と訪ねたり、有賀とメサイアを組んでいたこともある白崎「有賀について知ってることを教えてほしい」と聞いたりと有賀を理解しようと必死な風。その間宮の姿を見て、周囲も観客も、間宮は有賀の殺人を止めさせたいのかと最初は思うけど、間宮がクァンタムキャット(量子猫)という組織の構成員であり、スパイだったということが分かると内側からサクラを壊そうとしていたのだろうと考えが変わる。でも本当にそうなのか。間宮個人には破壊的な思想はあるけれど、それは組織に忠誠を誓う人間の思想ではない。単純に自分自身の目的のために組織に属しているだけ。サクラであっても、クァンタムキャットも同じこと。ただメサイアという関係をもって間宮が有賀に求めたのは「自分の苦しみを知ってもらいたい」ということ。間宮にも自らの苦しみから逃れる方法が分からなかった。だからこそ、メサイアが唯一自分を救う存在として機能するのであれば、どうやってこの自分を助けてくれるのか知りたかった。だから、有賀を試していた。有賀にどれほどの思い入れがあったのかは分からない。おそらく間宮にとって、他人を信頼したり愛情を抱いたりすること自体が恐怖だったのではないか。だからこそ、メサイアである有賀にも容易く銃を向け、命を奪おうとすることができた。

有賀にとって間宮はずっと特別な存在だった。人殺しのモンスターだった自分を人間に戻してくれたのが間宮のヴァイオリンの音色だったから。でも、他人に心を開いたり、関心や愛情を示すことを学ぶことのなかった有賀は間宮を受け入れることができない。それでも、「自分のメサイアを大切にするのは当たり前のことだろ」と言うように、メサイアである間宮を大切に思っていた。だから、例え裏切り者が間宮だとしても有賀には問題ではなかった。他の誰でもない、間宮と同じ世界を見たいと望んでいた。

間宮はずっと死にたかった。自分を絶望させた世界を壊して、自分も一緒に消えてしまいたかった。その破壊欲求を糧にモンスターとして生きてきた。でもそれももう限界だった。「あの時、俺を殺してくれたら、こんなに悲しい思いをしなくて済んだのにな」と有賀に言った間宮。最後の最後まで、二人は理解し合うことはできなかった。でも、この言葉を聞いた瞬間、有賀は間宮を救う唯一の方法を知った。間宮にとってこの世界に生き続けることが自体が苦しみだった。ただ唯一の救いは、死ぬこと。サクラを救うことができるのはメサイアだけ。だから有賀は引き金を引いた。

有賀と間宮はもう少しお互いのことを考えることができたなら、理解し合うことができたなら、他のサクラのように「メサイア」を自分の生きる意味として見い出せたはず。救うことをではなく、生きることを「メサイア」の存在意味にできたなら、と思うけど、それはあり得なかったんだろうな。

今回の三栖と周は再会するようでしなくて始終切ない。でも今までのように上っ面でお互いのことを考えていないというのではなく、特に周がはっきりと三栖に信頼を感じていた。そこにはやっとわかり合えた兄との別れによって、精神が壊れてしまった周の孤独も影響しているかもしれない。周は手が届きかけていたものを失うことの多い。そして、自分に対する要求も高い。環境に失望し、他人に失望し、そして自分自身にも失望したら、それは絶望だ。彼には復讐が残されているからかろうじて生きているという状態かもしれない。

主よ、彼らに永遠の安息を与え、
絶えることのない光を彼らに照らしたまえ。

合唱メモランダム: モーツァルト 「レクイエム」 対訳

 再び出会うことのない、かつて存在した「救世主」たちに捧げたい。

 

箇条書きメモ

  • 突然のダブステBGMとともに登場した加賀美はなんだったのか
  • アクションはマジですごい
  • 評議会とクァンタムキャットを作り分けた意味は?
  • 三栖の思想が限りなく公安の人間っぽくなってきた
  • シュレーディンガーの猫の例えはことあるごとに使っていきたい 
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Messiah メサイア -深紅ノ章-(映画)

脚本: 横山あゆみ、山口ヒロキ 監督: 山口ヒロキ

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間宮亡き後の有賀と新メサイアの加賀美(杉江大志)、そして周の復讐の物語を描いた作品。

一人でもサクラとしてやっていけると自分に過信する加賀美は、自らの愚かさのせいでチャーチを危険に晒す。そこを救ったのはメサイアの存在意味を知る有賀。経験値や能力の違いも大きな二人のチグハグな関係性が今後どうなっていくのかとても気になる。ということしかまだ何も考えられない。最初に映画→ドラマ→映画と観たときには、個々に間隔が空きすぎて1つのシリーズとして考えるのが難しかったけれど、鋼ノ章まで観た後に深紅ノ章を観ると新サクラ達のことも評議会側だった三栖と周のことも一通り分かったのでやはり物事を知ることをさぼってはいけないと思った。当然だけど。ただ、通して観たからこそ思ったのは、この作品での有賀と加賀美の在り方がライト過ぎて非常に消化不良。加賀美は有賀と間宮のこと知ってて、それでもあの感じとは、真性のコミュ障でなければなんなんだろう。最後互いに心を開いた「らしい」ところも納得性がなかったし、「簡単に心開いたらぶっ殺す」と鋼ノ章のカテコで言っていた間宮に完全に同感。舞台と映像の温度差をひしひしと感じた。

一方、兄の堤嶺二を亡くし、総ての仇である父の堤貴也へ復讐を果たした周は本格的に生きる意味を失う。そこで、復讐のことだけ考えていた周の救いとなったのは三栖の「この国を変えたい」という革命への強い思い。三栖も周のことを引き受ける決心があるし、互いが互いの生きる意味(救世主)になった。サクラたちに比べて随分時間がかかったけれど、この二人がこうなることは定められていたことのような気さえする。二人の出会いのスピンオフがほしい。 

箇条書きメモ

  • 鋼ノ章にも出ていたけど、自分は村田充さんを見ただけで心が躍るタイプのサブカル女子だと思い出した
  • 三栖と周のスピンオフがほしい(大事なことなので2回書きました)
メサイア―深紅ノ章― [DVD]

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新刻シリーズは2017年2月

楽しかったけど長かった。そしてまだ続くそうで。

キャストや物語の軸がどこに置かれるのか気になるところだけど、当分先のことなので、とりあえずは今あるところの情報で引き続きことあるごとに考えていこうと思う。

個人的な参考文献は引き続きキェルケゴールの『死に至る病』。絶望は死に至る病だが、人間は皆少なからず絶望していて、その中でも自らが絶望していると認識している人は、救済に少しだけ近づいているというのが基本的な考え。その上で、ただ唯一のメサイア=救世主(キェルケゴール的に言えばキリスト)を信じることだけが病(絶望)の回復につながるとしている。あくまでキリスト教の信仰心を高める考え方なので、その総てが当てはまるとも思わないけど、少なくとも絶望した人間には信じるだけで救われるという存在が必要なのだと思う。それがある人にとってはキリストであり、サクラにとってはメサイアであるということなのだ。

 

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*1:「ベターハーフ」とは元々一つだったものが、二つに分かれている状況において、片割れであるという表現をしたいときに使う言葉。細かく言えば、「よい方の半分」ということだから主体側から見てもう片方を立てる言葉。