取り留めもない

映画や舞台の感想書いたり、たまに日記も

"メサイア・プロジェクト"について考えたこと

メサイア・プロジェクトとは

女性を主な対象としたメディアミックス企画。現実とは異なる歴史を辿った世界の日本で、秘密結社じみた「警察」の一セクションに所属する精鋭エージェントたちの、一般人には知られる事の無い暗闘を通し、主に男性同士が結ぶ究極の友情を描く。


元々は角川書店(現・KADOKAWA角川書店ブランドカンパニー)が立ち上げた企画であるが、現在は別の会社が主導し、男性俳優が多く出演する舞台・実写映画・テレビドラマ作品群が製作されている。(詳しい沿革は下記の別項を参照)。

メサイア・プロジェクト - Wikipedia

 

このプロジェクトというか、シリーズに興味を持ったのは、映画版第一作にD-BOYSの面々が出演していたから。でも、それを初めて観たときは正直内容の薄さと設定の分かりにくさに食指が動かず、そのあと玉城裕規目当てにドラマ版を観たけどそれもいまいちハマらなかった。そして今月、このメサイアのすべての始まりとなっている原作本が新装版として発売されると知り、ファンが多い理由を再度確かめたくて読んでみたことがきっかけでもう一度舞台以外の作品を見直した。 

 

メサイア 警備局特別公安五係 (講談社文庫)

メサイア 警備局特別公安五係 (講談社文庫)

 

 

これを読んでふと『華鬼』を思い出した(リンクで物語を読めます)。古き良きWEB小説の厨二なテイストと熱量と読みやすさ。そして一番大事なのが物語の空白。間と間をつなげるのは自分の想像力という感じがあって、読んでいてワクワクしたし、自分の中にメサイアの世界を作って逃げ込むこともできた。このくらい余白があって多くの情報がない方が、登場人物の感情や表情を感じ取って物語に没入しやすい。内容は割と殺伐としていて、人間味と血生臭さは薄く、むしろ読後感は爽やかな感じさえする。そして空白と同様に登場人物には謎が多い。だからこそ、この話に出てくる人たちの過去や未来が知りたくて、というかきちんとこの原作を読んだ上で他を理解したいと思った。

 

メサイア』の世界の絶対規律

生徒(サクラ)は、"チャーチ"について沈黙を守らなければならない。

生徒は、"チャーチ"を出れば二度と接触してはならない。

生徒は、任務に失敗した生徒を救助してはならない。

生徒は、友人や恋人になってはならない。

けれど、ただひとつの例外は存在する。

メサイア"を、唯一の例外として。

 

この『メサイア』は"チャーチ"と呼ばれる国のスパイ養成学校での物語で、その生徒や卒業生たちは"サクラ"と呼ばれる。サクラはスパイである以上、国を守り"チャーチ"を守ることが求められる。完全個人主義の世界で、基本的に任務に出たら頼る仲間も友人もいない。ただ、"チャーチ"でともに鍛錬に励んだ相棒である人物を自らの救世主になぞり"メサイア"と呼び合い、その"メサイア"同士だけがお互いを守ることを許されている。という状況から生まれた上記の絶対規律。設定厨にはたまらないものであることは確かだけれど、何がポイントなのか。それは、あくまで「許可」ということだと思う。規律の中の例外は、すなわちその例外を認めるということだけで、決して推奨されるわけでも強いられるわけでもない。助けてもいいし、助けなくてもいい。でも、家族もいない"サクラ"の唯一の存在が"メサイア"だとしたら、相手の嘘さえ信じることもありある。なぜならその人が自らの"メサイア(救世主)"なのだから。というある意味残酷なシステムの中で繰り広げられる物語だと考えると、表層のスパイ物語のより深いところ、極限状態での共依存の美しさと恐ろしさを考えてしまう。

 

Messiah メサイア(映画)

監督は『デスノート』の金子修介。二作目の漆黒の章のキャラクターはみんな出ているけれど、主軸は海棠鋭利(小説版の主人公)がスパイとして潜入した学校で出会った監視対象の青年との友情物語なので、メサイアの大事な絶対規律の活かせてなさが顕著。あまり面白みはない。

Messiah メサイア -漆黒ノ章-(映画)

監督は『グシャノビンヅメ』の山口ヒロキ。どうしてこの監督が選ばれたのか分からないけれど、画面の色味と一部キャスト*1がそれっぽかった。メサイア・プロジェクトとしてはこの作品から見るのが良いとは思うんだけど、小説のスピンオフというように初めは思ってしまった。そうであり、そうでないんだけど。小説を経ることでこの物語が「信頼」と「裏切り」を基本としていることがわかって、登場人物の喪失と再構築の物語を注目することができるようになったのかなと思う。

Messiah メサイア -影青ノ章-(ドラマ)

ここで時系列的には舞台作品ををいくつか飛ばしているけどその点はそこまで問題ない。新たなサクラが成長していく中で、サクラはメサイアとどうやって信頼関係を築いていくのかということが描きたかったんだろうと思う。そこで、メサイアというものを確立していく工程を目にすると僅かに恐怖を感じるというか、いくら強靭な精神力をもったスパイといっても、共依存の状態を意識的に生み出して支え合うというのは、脆さを生み出すこともあるだろうなと思えてくる。それさえも飲みこんで立派なサクラになることが求められるということなのか。

Messiah メサイア -深紅ノ章-(映画)

さすがにこれを観るときには、前作の舞台『Messiah メサイア -鋼ノ章-』について調べた。そしてこの『メサイア』の世界の絶対規律の効果が最高に発揮された物語があったと知った。メサイアとして信じていたものの裏切り、そしてその喪失はサクラにどんな影響を与えうるのか。それはちゃんと観ておきたいと思ったけれど、今はひとまず置いておく。

前作でメサイアを失い、新しいサクラが現れまた新たなメサイアとなる。徐々にお互いを信頼しはじめ、メサイアとなっていく姿にはまた同様の喪失への恐怖を感じたけど、そんなことに拘るのは意外と私だけなのかもしれない。なぜならそこの部分は大して描かれていなかったから。「信頼」と「裏切り」の物語なのだから、この二つが表裏一体であるということを暗に示す感じできてもらえるとありがたい。

これまでも出てきているけれどサクラ以外にも公安がいたり、反体制勢力がいたり、そういう人物たちが時代によってどういう思いで生きて、苦悩して、死んでいくかというところも大きな見どころになっていた。

 

何にしても、舞台をひとつも観ることができていないので、語るには情報が少なすぎると書いていて思った。でも、もう一度追ってみて分かったのは、これがよくあるスパイを主題にした物語をド派手な別世界の話ではなく、もしかしたらすぐそこにある世界で、サクラとして必死に生きる青年たちの物語として目の前に現前化するからこれほどまでに惹かれるんだろうなということ。残酷で美しいと思う。それはこの詩の生命力のように。

 

天にましますわれらの父よ
天にとどまりたまえ
われらは地上にのこります
地上はときどきうつくしい
ニューヨークの不思議
それからパリの不思議
三位一体も顔負けで
ウルクのちっちゃな運河
万里の長城
モルレーの小川
カンブレーの薄荷菓子
それから太平洋
チュイルリーの二つの泉
いい人たちとわるいやつら
この世のすべてのすばらしさは
地上にあります
あっさりと地上にあります
あらゆる人にあけっぱなしで
めったやたらに使われて
こんなすばらしさに自分でうっとりして
しかもそれを認めたがらない
裸をはずかしがるきれいな娘みたいに
してまたおそろしいこの世のふしあわせ
それは軍隊
その軍人
その拷問係
この世のボスどもと
その牧師 
その裏切者 
その古狸
それから春夏秋冬
それから年月
きれいな娘と 
いやな野郎
大砲の鋼のなかで腐ってゆく貧乏の藁
ジャック・プレヴェール「われらの父よ」

 

「ときどきうつくしい」と皆が感じる世界のために、彼らは父である神に誓いを立ててどこかで静かに任務に就いているとさえ思えてくる。まるでサクラである彼ら自身がこの世界のメサイアとなって。

 

 

*1:中華料理屋の店主(小)