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中屋敷法仁リーディングドラマ『ぼくらが非情の大河をくだる時ー新宿薔薇戦争ー』

演劇

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STORY

舞台は都内の公衆便所。

そこは深夜、男が男を求めて集まる、なまめかしい無法地帯。

正体不明の詩人がどこからともなく現れ、便所の壁や柱を愛撫し始める。

「満開の桜の木の下には一ぱいの死体が埋っている。深夜の公衆便所の下にも一ぱいの死体が埋まっている…」

詩人はそんな妄想を信じて壁や柱を愛おしそうに愛撫する。

そこに詩人が入るために作られた、白木の棺桶を担いだ男が2人。

詩人の父と兄である。

奇行を繰り返す息子を追って、夜な夜な棺桶を担いで走り回ることに、心底疲れ果てた、父。

幻想の中にいる「強くたくましいおにいちゃん」でいるために、弟の混沌に寄り添い続けている、兄。

「にいさん、ぼくは気狂いじゃない。にいさん、ぼくを見捨てないで。にいさん……!」

詩人の叫びは、白昼夢のような真実を浮かび上がらせ、その幻想はやがて非情な現実となってゆく……

中屋敷法仁リーディングドラマ 「ぼくらが非常の大河をくだる時−新宿薔薇戦争−」

物語について

会場で配られたパンフレットにこう書いてある。

同性愛の男たちが群がる奇怪な夜の公衆便所を舞台に、かつての革命運動のリーダーだった青年と、きびしい運動のなかで気の狂った詩人の弟、ひたすら平穏な日常に憧れる父親との激しいドラマが展開する。

この作品が初めて上演される少し前の1960年代。若者の一大関心事は学生運動だった。それが70年代に入り、運動に破れ、疲労した人々は今までと異なる未来を想像するようになる。まるで、今までは運動の熱に浮かされていただけだと言うように。そんな状況で上演された『ぼくらが非情の大河をくだる時』は役者と観客の間で、自らの滑稽さと脆さを共有していた。懇切丁寧に説明しなくとも、詩人・兄・父といえば引用したようなイメージが共有されていたのではないか。詩人は「理想」、兄は「現実と理想の狭間」、父は「現実」だ。きっとその時代に同じ意識のもと今作を観ていたら、私も彼らの滑稽さに腹を抱えて笑っていただろう。実際、当時は観客は大笑いしていたという。でも、その時代を生きていない人間にとっては、いくら説明されたとしても、当時の臨場感は得られない。でも上演中の一時間、朗読劇でこそより感じられる台詞の美しさ中に、分かる言葉や感情を辿っていくような作業をしていくと、瞬間的にこの作品が書かれた70年代に心が移り、そして終演後今の時代に戻ってきた時に、あの時代への強烈な羨望を抱いている自分に気がつく。気が狂うほどまでに熱中した何かを持っている詩人への羨望。私自身も詩人という希望を背負う兄のような心持ちだった。

詩人と兄の関係は依存と言っていい。詩人はパワーとカリスマ性を持った兄を信仰していた。でも、兄はその他の若者たちと同様に運動の夢破れ、志を諦めんとしている。そんな兄を前に、神をも失うことと等しいと感じ、感情を押さえきれなくなり爆発させる詩人の弟。兄も、そうやって一心に信じてくれている弟の存在があったから存在を保っていることができた。兄も兄こそ、弟を失っては生きていけなかった。

また父にも言い分がある。詩人にボロクソに言われても息子たちに訴えたいのは、平穏な日常がどれほどに大切か。そして、平凡な日常が人生の大半を占めているということ。革命運動で命を燃やすような瞬間を生きていても、そんなのは一瞬。それが過ぎれば刺激もない日々が続いていく。そのことに早く気が付いてほしいと思っている。父が必死に育てている薔薇は息子たちそのもの。新宿薔薇戦争という副題は兄弟と父親のドラマそのものなのだと分かる。

弟は自分は狂ってなどいないと兄に訴える。詩人の役割とは時代の見えない部分と結びつくことだ。詩人は必要であるかの如何には関わらず、忘れ去られようとするその人や時を少しでもとどめておく役割を担っている。弟は死んでもなお、別の道に進まんとする兄を引き止める。それが詩人としての役割だから。弟は兄を理想の中に閉じ込めてしまった。

朗読劇について

事前にフラグを立てるようにこんなことを書いていた。

aooaao.hatenablog.com

そして今だから言える「朗読劇で良かった」と。時代が作り上げた作品だからこそ、今の文脈で何かが伝わる作品に仕上げることは至難の技だったと思う。時代背景も、キャラクターも、イメージもだいたい今とは異なっていて、そのまま昔と同じように演ってもリアルではない。例えば、「踊る」とト書きにあって踊ったとしても、おそらく違和感しかない。今の時代に『ぼくらが非情の大河をくだる時』が持つのは、言葉と感情の圧倒的なパワーだったし、それが最も強調される方法としての「朗読」だと、僭越ながら感じることができた。特に、役者が本に向かって感情をぶつけたり、吐露したりするのを正面で目の当たりにすると、それはもう鳥肌が立つというか身動きできなくなるというか、その言葉と感情が他人事ではなくなる感じがした。すごく良い。

キャストについて

Aチーム

演出の中屋敷さんいわく「Bチームはまだ笑える。Aチームは地獄」ということですが、AチームはBチームに比べキャストが若いこともあって、観劇後ヒリヒリした感覚が残った。正気と狂気のバランスが良く、特に狂気が大げさで嘘っぽいところが、この戯曲の誇張した主張をうまく表現していたんだと思う。彼らの芝居を見ていると、戯曲は役者の声で読まれてこそ戯曲として完成するものなのだと感じさえした。声に出し紙から浮き立った時にこそ、頭でっかちだった言葉が命を得て動き出すというような。

詩人の神永圭佑くんは「朗読劇」に忠実で、客席を見つめるほかは常に台本を凝視していた。ある時は哲学書を読むように、ある時は父の顔を睨みつけるように、またある時は兄を求めるように、彼を正面にした観客はその姿を目撃することになる。神永くんの詩人はどこまでも純粋無垢だった。詩人の狂気にしても、子供がごねる様子に見えたり、出会い頭の恋に落ちる瞬間の表情をしたり、見ているうちにとても愛おしく感じてくる。対する古谷大和くんの兄は、理性と本能の狭間で生きていた。そして、かつては憧れを抱かれていた神永くんの詩人の真っ直ぐな純粋さに、逆に羨望の目を向けはじめているように感じた。その関係性から、兄弟が共依存に陥っていく姿を目の当たりにしてしまったという恐ろしさがあった。永島敬三さんの父はどこまでも現実を生きていた。疲労を感じさせる投げやりな言動。教育的になれない哀しさ。今まで息子たちから目を背けていたツケを払っているとでも言いたげな目がとても良い。Aチームが「地獄」だと思うのは、この三人はこれからもっと苦しむのだろうなと感じたからだろうな。しかも、仕方がないというのではなくて、望んで地獄に堕ちていっている。それを支える淡々とした髙橋里恩くんのト書きは、感情的でないことが効果的に効いていた。

Bチーム

確かに笑える。当時は観客が大笑いして観ていたらしいからこの空気感がその頃に近いのかもしれない。滑稽さの再現度が高いとでも言うのか。この時代のリアルに対して温度感が高かった。それが喜劇に見える理由かもしれない。皆生きた人間なんだと感じる演技。Aチームが観客が向こうの時代にタイムスリップしているのだとしたら、Bチームは役者と舞台がこちらの時代に来た感じ。

多和田秀弥くんの詩人はとにかく狂っていて、観客も含めた皆が距離を置きたいと感じていた気がする。「狂ってる」って直接言ったら真顔で詰められそうな力強い雰囲気。怖い。対する安里勇哉くんの兄は常に冷静で、あの手のつけられない多和田詩人を手懐けている感さえあった。内に秘めたる狂気。それがまた革命運動のリーダーっぽい。そのまま日本赤軍のリーダーになって無差別テロ起こしたりしかねないとも思った。特に印象に残っているのは、安里くんの声がハチャメチャに良いということ。声で群衆を扇動できるんじゃ。唐橋充さんの父は酒と辟易する状況に酔っ払っていた。Aに比べてBの滑稽さが際立っているのは唐橋さんの力が大きい気がする。田中穂先くんはト書きでも演じているなあと思った。彼のト書きを前にしては、そこにいない人が出現する。なんとも不思議な感覚だった。

残すは千秋楽、2公演のみ。当日券もあるそうなのでぜひに!

 

公式サイト

bokuraga.com

ゲネプロ写真

sumabo.jp

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