取り留めもない

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夕陽伝とキェルケゴールの実存主義

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セーレン・キェルケゴール

 

D-BOYSならびに、Dステ17th『夕陽伝』キャスト・スタッフの皆さん、東京千秋楽お疲れさまでした。一言で言うと、なかなか感情移入のできない作品でした。このなんともいかんともしがたい想いを自分の中で昇華せんとPCの前に座っています。以下、作品の感想でも、批評でもなく、レビューでもなく、「こうだったのかもしれない」と自分自身を納得させるために書いている文章なので、ご容赦ください。基本的には妄想です。あとは、『幽悲伝』で答え合わせするつもりです。

 

さて、前置きをしたところでこのエントリーのタイトルについて触れたいと思いますが、『夕陽伝』を見て気になった「為すべきことを為す」という言葉。これを聞いて私は、キェルケゴール実存主義的な考え方だと思いました。

 

実存主義は、現代社会の疎外状況を直視し、各個人の内面的な自覚・決断・努力によって、だれとも取り換えのきかない、かけがえのない自由な主体性を確立し、このことによって人間の自己疎外を克服することをめざす。

(シグマベスト『理解しやすい倫理』編著者 藤田正勝、発行所 株式会社 文英堂、P250、L16)

 

というのが「実存主義」なのですが、実は私もよく分かりません。ただ、その「実存主義」のニーチェとならぶ先駆者のキェルケゴールの言葉を読むと、少しずつ分かってきます。キェルケゴールは本来的自己をめざす人間の自覚的生き方=実存を求めていくことが、真の人間のめざすところだと言っています。

 

「わたしにとって真に必要なことは、何を認識すべきかではなく、何をなすべきかを知ることである。・・・だいじなことは、わたしにとっての真理を見出すこと、わたしが喜んでそのために生きかつ死ぬことのできる理念を見出すことである。」

(シグマベスト『理解しやすい倫理』編著者 藤田正勝、発行所 株式会社 文英堂、P251、L17)

 

 

このキェルケゴールの言葉こそ、海里、そして『夕陽伝』が主題としていたことであり、その他の登場人物にとっても重要な考え方です。『夕陽伝』で最後に海里が見つけた実存*1やそれを見つけ出す過程は、どちらも私にとって特段面白いものではなく、そこが感情移入できない大きなポイントでした。それでは、他の登場人物はどうだったのか。

 

多くのステージレビューで言及されているであろう池岡亮介の毘流古の怪演から見える、毘流古の飽くなき実存への欲求と、その発露は圧巻でした。そもそも毘流古は大和国の長兄として生まれましたが、全身の骨がない異形であったために死者として葬られ、自我を持った頃からずっと自分の愚かさを認識し「自分はどうしてこの世に生まれてきたのか」と苦悩します。

 

おそらく、さらりと口にされた毘流古の過去のあらゆる罪深い所業の間に、彼は①美的実存*2と②倫理的実存*3という段階を経て、不安や絶望を何度も経験してきたはずです。そして更に、自分自身の苦悩である「人生の問い」への答えを求めて、「神(=凪大王)*4」の前に「単独者*5」として立つのです。そこで神が伝えるのは、大切なのは「なぜ生きるのか」ではなく「何をして生きるのか」ということ。毘流古は今まで苦悩し続けた問い自体が誤りであることに気づいていません。

 

人間は為すべきことを為さなければならない。毘流古にとって「世を呪うこと」が「そのために生きかつ死ぬことのできる理念」、つまり「為すべきこと」だったのだと考えることもできますが、破滅に邁進していた彼が二度目の死に恐怖しているところから推測すると、果たしてそうだったのかと思います。結局、毘流古は「何をして生きるのか」の問いまで辿りつかず、もちろん「自分はどうしてこの世に生まれてきたのか」という問いの答え合わせが出来ぬまま、絶望し二度目の死(魂の死)を迎えるのです。つまり毘流古は「何でもない自分」に絶望し耐えきれず、メタファー的な神に殺され精神の死を迎えた(=死に至る病に犯されていた)ということだったのではないか。「何のために生まれたのか」「何のために生きるのか」そのどちらも主体性を持って越えなければいけない。その答えを自分で導き出した海里はいずれ神となり、他の何者かに求めた毘流古は死者となったのです。

 

『夕陽伝』という話は「死」の概念をいくつかの観点で提示される作品なのではないかと思っています。その一つが、毘流古の実存主義に基づいた死。あくまで作品から読みとったこちらの思考の域からは出ない妄想ですが、こう考えることで毘流古の死が自分にとってあと少し意味のあるものになればと願ってやみません。

 

 

*1:本来的自己をめざす人間の自覚的生き方

*2:人間が自分の欲求を追い求めて享楽的に生きていく段階

*3:享楽生活を棄て、良心に従った道徳的な生き方へと進む段階

*4:キェルケゴール的にはキリスト

*5:個性的・主体的に生きる人間、真に実在する人間