取り留めもない

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時代の演劇 ー清水邦夫とつかこうへいの違いー

時間が空いたので、早稲田大学演劇博物館に行ってきた。行くのは二度目。その時には「あゝ新宿―スペクタクルとしての都市」展が開催されてた。そのことをふと思い出した。この企画展は今年の6月から新宿高野本店でも開催される予定なので内容の詳細は割愛するが、前回なんとなく「あ~蜷川幸雄寺山修司唐十郎か~ふ~ん」と思って終わってしまった展示の内容が今なら少しは分かる。例えば、先日観た『ぼくらが非情の大河をくだる時ー新宿薔薇戦争ー』がこの時代の作品だった。

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上記の企画展の宮沢章夫の寄稿文を読むと、1974年に岸田國士戯曲賞を受賞した『ぼくらが非情の大河をくだる時』の清水邦夫と、『熱海殺人事件』のつかこうへいでは時代に対する考え方が違うとして対比されている。清水邦夫は演出を務めた蜷川幸雄とともに、60年代に運動をしていた学生の思想や彼らの熱を演劇で再度提示しようとしていた。が、上演初日に彼らの作品を観ている観客が笑っているのを目にして、蜷川幸雄は「自分たちの演劇の筋力の弱さ」を知ったと言ったという。つまりそれは、「観客に伝わっていない」と感じたということだろう。すでに、その時の観客は強烈な思想や熱など必要としておらず、純粋なエンターテインメントを欲していたのだ。一方のつかこうへいは、大々的なメッセージ性よりも観客の求めるエンターテインメントを自然と追求していた。その結果、いまでも上演されるどの時代にも通じる普遍的な作品が多く生まれた。これをして、どちらが優秀かという必要はないが、時代を象徴し表明する清水邦夫の戯曲のような作品と、エンターテインメント性の高い普遍的なつかこうへいのような作品では、明らかにレイヤーが違うところに存在しているし、楽しみ方も異なる。以上の情報を仕入れた状態で『ぼくらが非情の大河をくだる時』を観たかった。正直、この手の時代を反映させた作品で、時代背景を知らなくていいなんてことないと思う。この時代の人が何を考えて物語を作り上げたのか。それは作品自体を楽しみために重要なもの。と言っても、自分自身は前もって戯曲を読む程度のことしかできなかったのが、今は悔しい。

結局時代の演劇というものは存在していて、それはその時しかない空気感を持っていたり、作品だけでなく観客とともに作っていくものであるからして、そこが魅力なんだよな。蜷川幸雄が「伝わらない」と感じたことも含めてこの作品なのだよ。それを踏まえて考えると、先日の『ぼくらが非情の大河をくだる時』は、一切の情報がなければなかなか作品を理解することができない観客を前に、いったい何を生み出したのか。かなりの愚考で申し訳ないが、今の時代に演劇の力で、誰かや何かが変わって、世の中が変化するということはありえないのだということがはっきりとしたということが、今回上演した意味のように今は感じている。

時代の反映なんて必要としないエンターテインメント大時代。これが消費社会か。なんだか寂しい気もする。

参考記事

早稲田校・八丁堀校特別連続講演講義録「横断し、越境する文化」

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