取り留めもない

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Lecture-Spectacle『Being at home with Claude ~クロードと一緒に~』

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前回、この記事*1を書いたあと、いろんなことを考えた。その中で、自分の中でさえもたった一つの答えを出せずにいて、ぐるぐると考えだけが頭の中を巡っていたけれど、ひとまず今思うところを書き残しておく。それしかできないし、今はそれだけが自分のすべきことのような気がする。ネタバレします。

CHARACTERS

「彼」: 自首してきた若い男娼。
刑 事: 殺人事件の取り調べを行う。
速記者: 刑事のアシスタント。事件の調書を作成するため取り調べの記録を行う。
警護官: 裁判所の警備にあたっている。年齢不詳。

STORY

1967年 カナダ・モントリオール。裁判長の執務室。
殺人事件の自首をしてきた「彼」は、苛立ちながら刑事の質問に、面倒くさそうに答えている。男娼を生業としている少年=「彼」に対し、明らかに軽蔑した態度で取り調べを行う刑事。部屋の外には大勢のマスコミ。
被害者は、少年と肉体関係があった大学生。
インテリと思われる被害者が、なぜ、こんな安っぽい男娼を家に出入りさせていたか判らない、などと口汚く罵る刑事は、取り調べ時間の長さに対して、十分な調書を作れていない状況に苛立ちを隠せずにいる。
殺害後の足取りの確認に始まり、どのように二人が出会ったか、どのように被害者の部屋を訪れていたのか、不貞腐れた言動でいながらも包み隠さず告白していた「彼」が、言葉を濁すのが、殺害の動機。
順調だったという二人の関係を、なぜ「彼」は殺害という形でENDにしたのか。
密室を舞台に、「彼」と刑事の濃厚な会話から紡ぎ出される「真実」とは。

Being at home with Claude -クロードと一緒に-

REVIEW

「彼」が言語化した感情

この物語は、はじめそれぞれの思惑のもとでバラバラになっていた登場人物が、ある一つの事実をはっきりと認識する物語だと思っている。

刑事ははじめ、自首さえしなければ被害者(=クロード)と何の接点も見つけられなかった彼(=イーヴ)のことを、「頭がおかしい奴」だと思っていて、何かのきっかけで被害者を殺してしまった彼が、自分と裁判長との関係をマスコミにちらつかせることで、自分の罪をスキャンダラスにして面白がっていると考えている。それに対して彼は、「自首をしたいだけだ」と主張するのみで、互いに求めるものを理解できないまま話は平行線で時間ばかりが過ぎていく。刑事ははやくこの事件の真相を明らかにしたい。そうして彼も、刑事と同じく、「なぜこの事件が起きたのか」ということを刑事をはじめとするできるだけ多くの人たちに分かってほしい。基本的に、この二人のなそうとしていることは非常に近似しているにも関わらず、なぜ36時間も取り調べが続いたのか。それは、劇中に彼が言うように、刑事は総ての物事を言葉で理解しようとしているのに対して、その対象の「彼」自身やこの事件の動機となったほとんど総てである「彼や被害者の感情」、「彼らを取り巻く周囲の思想(偏見)」などは容易く言葉にして伝えることができないものであるということにある。言葉にするだけでもつらく、苦しい感情を彼が言語化していくというもどかしさと難しさを感じることが、この作品の醍醐味である。

そうして吐き出されたどの台詞も、彼から絞り出された痛切で、感傷的な言葉ばかりだけれど、それ単体で提示されてもあまり意味をなさない。それは彼が、その言葉を言うまでに、どれだけの他の言葉を重ねてきたのかという方が重要だから。タイトルにもなっている「クロードと一緒に」や「愛してる」という言葉を発するまでの、その長い道のりのもとを辿ると、おそらく彼が生まれた時まで遡るはず。刑事が彼の冗長なような話を聴きながら、「(カナダ国民が)フランスから上陸してくるところから始めるんじゃないかと思った」と冗談を言うシーンもあるが、でもまさに、彼が彼の感情を言葉で紡ぎ出す根源はもっとずっと昔にあった気さえしてくる。

あの人が死んだ理由

閑話休題『彼女が死んじゃった。』というドラマ化もされた話がある。たった一夜を共にした女性が自殺したと知った主人公が、その女性の妹と一緒に女性の死んだ理由を見つけるために旅に出る物語。私はまさに今、その旅に出ているような状態だ。

あまりに理由を考えすぎて、「彼(=イーヴ)があの人(=クロード)を殺した理由」という問題定義で考えられなくなった。それは「彼が殺人犯ではない!」と主張したいからではなくて、「彼があの人を殺した」というのも、「あの人が自殺した」というのも同意義に感じてしまっているから。なぜなら、完全にあの時の彼とあの人が重なって同じ存在になったのだとしたら、彼があの人を殺そうと思うのも、あの人が死にたいと思うのも、彼が死にたいと思うのも、あの人が彼を殺そうと思うのも、「どちらかを失う」という意味において同じだから。彼らは「目覚めた」瞬間から、この世界で最も大切な存在を傷つけることや、失うことが最大の恐怖となった。でも、それと同時にいつかその日がくると感覚的に感じ取っていた。大切だと思えば思うほど、その相手に対する期待や落胆は大きくなる。大切な存在が、最も恐れるべき存在になってしまう。彼のように今まで幾度となくそういったことを繰り返して来れば来るほど、その最悪を恐怖し、その前に何とかしなくてはと思ってしまうのではないか。

一例として、彼を軸にして考える。彼は体を重ねることで自分と関わった人たちを日常(現実)からそれぞれの理想の世界に誘ってくれる存在だった。けれど、彼にはその人たちを理想の世界に留めておくことはできない。それは彼自身も同じ。どれだけ楽しい時間でも、いつかは過ぎていく。ただ1つの方法を除いて。それが、あの人を殺すことだった。ただ、ここで忘れてはいけないのは、いくら心中的な要素をはらんでいても、殺人を選択したことは事実であり、そこに完全な同意があったわけでもない限り、独りよがりな結果になるということ。これは、彼にとっても一生の後悔として残る。

また、あの人を軸にして考えた時に、あの人は「自殺したのではないか」とも考えられる。あの人も、彼同様にあの時目覚めたことで自分たちの未来を見た。そして自分たちの行く末を案じた。彼ほど強くないあの人が、顔の横にあったステーキナイフを自らの首にあてたと考えてもそうおかしいことはない。それを目の前にして総てを悟った彼は、あの人の自殺の罪を背負って生きることを決めたということもままあり得そうだ。ケベック州民の大多数はフランス系カナダ人やフランス人(公用語も英語とフランス語)で、自らのアイデンティティを守る精神的な支柱として、ローマ・カトリックを信仰しているため、カナダで最もカトリックが強力。州民の約83%はカトリック信者*2という。彼やあの人がどれほど信仰心に厚いか知ることはできないが、彼らも他のカトリック信者と同様に少なくとも「自殺は取り返しのつかない罪(=赦されない罪)」で「死後に地獄に落ちて、最後の審判の後で復活するチャンスを永遠に失う」と考えていてもおかしくない。その罪を彼が目の前にした時、その罪を自らも受けようと思うほど、彼にとってあの人は唯一の存在だったんじゃないか。

というのが導き出した答えの一つだったりする。それはどれも、はっきりと胸を張って正解であると言えたものではないということは自覚している。それでも、私は「理由を探す旅」の中で考えて出てきたものは総て正しいと信じるしかない。

松田凌という「彼」

2014年の初演(2パターン)も、昨年の松田凌の再演も観ていない。その頃、自分は松田凌という俳優の顔も名前も知らなかった。だから、幸か不幸か「昨年と比べて論」はできない。ただもし仮に再演のストレート舞台が<事件の再現とその後の独白>なのだとしたら、今回は朗読劇ということで彼(=イーヴ)が自分自身のこと、そしてあの人(=クロード)のことを話を聞いてくれている人(勿論観客を含む)に伝える物語になっているのではないかと思う。物語の最後、机の写真立てに台本を立てかけて置いて残していくのだけれど、千秋楽では置く前にその台本を愛おしそうに抱きしめて泣き崩れた。そうして一通り別れを惜しんだ後、名残惜しそうに手放す瞬間を観て「ああ、確かにそれにあの人を重ねてたんだな」という感じがあった。「それ」というのは勿論台本のことだけど、これ以上は本人がブログで書いているので省略。とりあえず読んでください。

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今のところイーヴは彼のものになっているし、本人も何度か書いたり、言ったりしていることだけど、今後永く続くであろう役者人生の中で彼にはイーヴを演じ続けてほしい。そういうひとつのライフワークみたいになればいいなと。彼が30歳になった時、60歳になった時のイーヴだって観てみたい。若い男娼を年輪を重ねた人が演じることもできるというのが演劇の面白さ。他の人にも演じてほしいけれど、松田凌のイーヴは一生のものである気がしてならない。個人の願いも込められているけれどそう強く思っている。

 

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