取り留めもない

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イキウメ『散歩する侵略者』

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STORY

 海に近い町に住む、真治と鳴海の夫婦。真治は数日間の行方不明の後、まるで別の人格になって帰ってきた。素直で穏やか、でもどこかちぐはぐで話が通じない。不仲だった夫の変化に戸惑う鳴海を置いて、真治は毎日散歩に出かける。町では一家慘殺事件が発生し、奇妙な現象が頻発。取材に訪れたジャーナリストの桜井は、“侵略者”の影を見る_。

http://www.ikiume.jp/kouengaiyou.html

REVIEW

私は理解しているつもりでいた。だからこれは再び物語を思い起こす作業なのだと思っていた。でも実際は映画では半分も分かってなかった美しさがそこにあった。

イキウメの物語はSFだとどこかで思っていたのだが、今作は映画と舞台では印象が全く異なっていた。映画は地球に暮らす人達と、宇宙人の攻防という感じが確かにした。

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それがイキウメで『散歩する侵略者』を見た時には全く異なった感想が浮かんだ。そこに出てくる「宇宙人」も「概念の喪失」も常に私達の身近なところにあって、でも多くの人には気づかれていない。この気づきが訪れない内に様々なことが偶然のように連なっていくということそのものがイキウメのSFっぽさ。宇宙人だと思っていたものが実は自分たちと同じものだったということに恐ろしさを感じる。

理解ができない存在を「宇宙人」と呼び、常軌を逸した存在と認めるとそれは「宇宙人」になる。そう、認めなくてはいられない。そう認めることで自分の存在のまともさを確認し、「宇宙人」を拒絶する。だがしかし、実際は「宇宙人」を見極める方法などなく、あるのはそう区別することだけ。演劇はもともと作りごと、虚構の類だが、その中にもファンタジーを見出すか否かは作品によるだろう。演劇を観ていてそんな感覚になったのははじめてだった。

「概念の喪失」については作品中の登場人物ほどに急ではないにしても、誰もが経験し得るこのなのかもしれない。「ゲシュタルト崩壊」という言葉がある。文字や図形などをちらっと見たとき、それが何の文字であるか、何の図形であるか一瞬で判断できるのに、これを持続的に注視し続けることで全体的な形態の印象、認知が低下してしまう知覚現象のことであるが、自らの周囲にある概念に対しても同じこと。あまりに当然過ぎて疑うことがない「概念」を改めて問い直すと果たしてそれは何だったのかわからなくなってしまうこともある。本当のところはそういうことなのかもしれない。

少し前深夜のNHKの番組で、あるお坊さんが「死」の概念の乗り越え方として、「死」を経験するときにはすべて過ぎ去っていることであり、本当に「死」が恐ろしいのは、むやみにそれがきたときを予測して怖がっている瞬間だけなのだから、予測をやめることと言っていた。私からみればそれこそ概念の喪失。鳴海は真治と過ごす内に無意識にそのことを理解した。だから「愛」の概念を真治に捧げた。鳴海がその結果をどこまで予想していたのか分からない。まるで呪いのようなものだったのかもしれない。そして真治は知ってしまった。自分が目の前の人物にどれほど愛されていたのか。自らが鳴海を愛おしいと思えば思うほど、それが自分に向けられた愛情であったのだと。

「今はもう、わからないんだ」

その言葉が希望の言葉として私の心に入ってきた。『関数ドミノ』にも同じように、真っ暗な中の一縷の希みがあった。概念を奪うことで人びとが幸せになれるかどうかは分からない。ただ、等しく生き死ぬ我らが概念や思想に殺されてよいのか、ということは考えた。

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最後に少しだけ俳優さんのことを。真治を演じた浜田信也さんは全編を通して素晴らしかったのだが、特に宇宙人から人にスライドする瞬間の感情の込め方に私自身胸を打たれた。人間としての佇まいがとても美しい。

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なにが言いたいかというとつまり、イキウメの『散歩する侵略者』を観てくれ。

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