舞台『春のめざめ』

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STORY

ドイツの中等教育機関で学ぶ優等生のメルヒオール、友人で劣等生のモーリッツ、幼馴染のヴェントラ。ある日の帰り道、メルヒオールはモーリッツに『子供の作り方』を図解で説明すると約束する。成績のさえなかったモーリッツは、学校での過度な競争にたえられず米国への出奔を企てるものの果たせず、将来を悲観して自殺する。

一方、メルヒオールは半ば強姦のようにヴェントラと関係し、ヴェントラを妊娠させてしまう。自殺したモーリッツの遺品からはメルヒオールのメモが見つかり、ヴェントラとの事も発覚。自殺の原因とされたメルヒオールは親に感化院に入れられてしまい……。

あらすじ|舞台「春のめざめ」公式サイト | 舞台「春のめざめ」公式サイト | 志尊淳、大野いと、栗原類ほか出演

 REVIEW

物語がちょっと難解な気がして原作を読んでから臨んだ。

春のめざめ (岩波文庫)

春のめざめ (岩波文庫)

 

 岩波文庫の本なのに「ヤバイな」というごくごく今に近い言葉で書かれていて驚いてしまった。この舞台の上演にあたって文庫化されたということで、上演台本に近いものになっていると知って合点がいった。読後、学生時代にいくつか読んだドイツ語文学が現実的な題材を扱っていてもどこか幻想的で、不思議なくらい自然に超人的なものが登場してきたことを思い出した。幻想文学が多いこの言葉は、どこか日本語に似ていると思う。個別具体的に説明はできないのだけど。岩波版『春のめざめ』の訳者は本当に細かいこだわりを持っていて翻訳を行ったということが手に取るように分かって素晴らしい。特に、登場人物の名前の由来。カタカナにしてしまった時に失われてしまうその意味を、主要人物以外はきちんと日本語名に反映させている。ぜひ本を読んで確認してほしい。メルヒオールとモーリッツの名前については後述する。

物語について

冒頭、 降谷建志*1の手がけたアンビエントな音楽の中で少年少女たちが乱舞する。

そのワンシーンが今も脳裏に焼き付いて離れない。手にしていた本を空に投げて自由に踊る姿は自由であるのに、その一方でギムナジウムの中だけの箱庭的な歓びと哀しみを見ているような気がしていた。自由と閉塞。このテーマは最後までこの物語の中心にある。知りたいという欲求を押さえられない子供たちは、様々な知識・感覚・痛みを知っていくことで大人になっていく。大人たちは誰もがその瞬間を経験してきたはずなのに、知りたいという子どもたちの欲求を目の前にすると、閉口してしまう。

さて、モラルのことだが、ふたつの偉大な想像の産物とは義務と欲求だ。そこから生み出されたのがモラル。現実に存在することは否定できない。

F.ヴェデキント作 酒寄進一訳『春のめざめ』P.131 L4 第3幕 第七場

モラル(=倫理)を語るには義務と欲求について考えなくてはならない。大人たちは子どもたちにモラルを語るには、彼らの欲求に答えることが重要である。ヴェデキントは100年以上も前に、この作品でそのことを示した。抑圧は教育には程遠い。叶えられない欲求は過ちを生む。この悲劇はこの過ちがもととなっている。

一方で、喜劇のような感触もある。モーリッツが死んで、メルヒオールを罪に問う大人たちは滑稽で、また、モーリッツの死に方も生徒たちの間で二転三転してく様子もよく考えればおかしい。でも一番は大事なクライマックスを担う重要なキャラクターが蘇った首なしモーリッツと謎の紳士であること。今までの展開が現実的であったからこそ、この最後の展開には喜劇的要素を感じざるをえない。新たにモラルが問い直され、様々なことを学んで再び社会に戻っていくメルヒオールが、それまでの世界を嘲笑っているようにも感じる場面だった。

名前の話をすると、訳者の酒寄さん曰くメルヒオールはヘブライ語で「光の君」。モーリッツは中世にもっぱら黒人として描かれた聖マウリチウスからきて、ギリシア語のマウロス(黒)に由来を持つ。光と闇。白と黒。その対比がメルヒオールとモーリッツ。メルヒオールはモラルを手に入れ、モーリッツはそれに触れることもできなかった。ほとんど変わりなかった少年たちが別の道を歩んでいくことを暗示しているようだ。光が存在するには闇が必要なのだと知らしめている。

この作品を観て「神は罪深い」と言った友人の言葉がずっと頭の中を巡っている。神に対する罪は誰が下した罪なのだろうか。メルヒオールとモーリッツの罪を神は赦さないのだろうか。それらは全くわからないし、子どもが大人になるまでには斯くも重要なステップを踏む必要があったなんて知らなかった。

キャラクターについて

チケット運が良く最前列のど真ん中で観劇したので、役者たちの様々な表情や演技を見ることができた。メルヒオールを演じた志尊淳はDステの『TRUMP』以来のストプレだったが、映像に多く出ていることもあり演技が大きくなりすぎず、「14歳の少年」という曖昧なキャラクターを演じていたと思う。幼さと美しさ。脆弱さと強さ。それらを総てを持っていながらも、上手く扱いきれないでいる。そんな不器用さも透けて見えた。情が深いようで、途中からヴェントラを「あの子」としか呼ばなくなったメルヒオールの、与える愛を知らない無垢さがヒリヒリする。『春のめざめ』がミュージカルとして上演される時は、概ねメルヒオールとヴェントラは想い合っているように表現されるらしいが、原作に準じるとそれは一時の過ちであることが強調されている。それもあってメルヒオールというキャラクターを擁護したいという気持ちはあまり生まれなかった。ただ成長している彼を応援したいと思うような、そういう感覚だった。

栗原類が演じるモーリッツは愚かでありながら純粋で、浅はかでありながら愛おしく、不思議な気持ちになった。子ども特有の突拍子もなさや思い込みのしやすさを感じて、まさに思春期の少年という風。

大野いとが演じるヴェントラは、一番思慮深いのにも関わらず周りの人々、環境の所為で思わず狂わされていく様子が観ていて本当に苦しかった。あれほどまで世界の理解を求めたのに、誰も彼女を理解しようとしていない様にさえ思える。ヴェントラにもまだ愛を与えることも与えることもできないのだろう。

その他、少ない人数であの世界を表現した役者たちは皆良かったと思う。

演出について

最前の席の床より舞台が一段低くなっていて、舞台上はアクリル板で囲まれている。役者は舞台や客席の間を走り回り、壁を叩き、白を塗りつけ、電灯を手に動き回る。感覚的な演出が多く、役者の身体もセットの一部のように表現される。そして、人々の喧騒や心の動きを表現するような音楽。『春のめざめ』を読んでこの世界観を想像する演出家の白井さんはやはりすごい人だなと思った。大体一年ほど前に『夢の劇』を同じくKAATで観た時には感じられなかった世界と自分の合致を感じた。テーマや表現されるキャラクターにもよるだろうが、こんなに総てがフィットした空間を生み出すことのできる人に羨望の念まで抱いてしまう。一方で、悲痛や哀しみをもその世界に落としてなお違和感を感じさせない。むしろそれを望んでしまう。そんな理想を表現することの素晴らしさを実感した。

人間のナイーブな部分、曖昧な感覚、到底受け入れられない感情、浅はかな意図などを表現する人々はやはり美しいと噛み締めた作品だった。

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