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媒体(メディア)と理想(アイドル)という見方

基本的に俳優は物語を伝える媒体(メディア)なのだけど、単体で存在する時には理想(アイドル)だというように考えている。つまり、本業に従事していない時にはアイドルだと思って現を抜かしている。

極論、俳優は媒体(メディア)に過ぎない。素敵な物語を提供するために、体を動かし、言葉を発して、それを観客がメッセージとして受け取って考え楽しむ。物語の作者の想いをそのまま伝えるのか、監督や演出家のアレンジを加えて伝えるのか、俳優の個性を付随させて伝えるのか、そこに「こうしなくてないけない」というような決まりはない。それに、それで良かったのかという最終的判断は観た人一人一人が決めることであって、一概に良い悪いの世論を作るのは意味がないこと。

ただ、伝え方によって受け取った側の好き嫌いは生まれる。好きな脚本家(もしくは原作者)、監督、演出家、俳優の判断をするとしたらこの点に尽きる。それ以外はない。このメディアとなって物語を伝える媒体力が魅力的であれば好きになる。いや、好きでい続けることができるという方が正しい。

好きになるのは容易い。私の場合は顔が好みであれば好きになる。他の人は、声が良い、ダンスが踊れるなんていう理由があるかもしれない。「ああなりたい」というところまで感情を持っていかれる何かがあれば好きになる。一種の憧れや尊敬。それこそ理想(アイドル)だと思う。なんでも強く思えば宗教だから、崇拝して居れば心が安らかになる。と同時に、あらゆる信仰心の揺らぎに討ち堪える必要がある。

そんな時、私はその存在の根本的な存在理由に立ち戻る。俳優は媒体だ。彼らの表現する人や世界が自分にとって好ましいものであればあるほど、強く信じることができる。この人について行けば、もっと素晴らしい世界を見ることができると信じることができる。俳優を一例に出したが、その他どんなものでもファンとして在るのはその対象のパフォーマンスを信じているから。たったそれだけのこと。

私はとても自分勝手だから、自分の好きなものだけ手に入れたい。それを手に入れる近道を見つけられるかどうかは、媒体の選択にかかっている。ある層にはオタクは推しと付き合いたいと思っている人ばかりだと思われているようだが、それは違う。私はそんな簡単に人間を好きにならない。好きになるのは自分の信じるものであり、人であり、世界なのだ。総合的で複雑なものが自分の好きなものに修飾されているのだ。

私は自らの理想に期待する。その媒体としての力に期待する。美しい姿で歌い踊るのか、演じ舞うのかそれは個々の能力によるが、何もないそれに期待することなどできない。理想だったものも、媒体としての魅力を感じなくなってしまったら私はそれになにも期待できない。長い間、自分がこれと心に決めて応援している人も物のないのが残念でならなかったが、もうこういう考え方しかできないのだから仕方がない。

何でも見られればいいというものではない。自分が好きな世界を見せてくれることを期待しているのだから。一生懸命頑張っている彼らの作り出す世界が好きになれない時は、なかなかにつらいものがある。必死にかき集めて抱きしめても、私の心に残らないものだった時、どうしたらいいかわからなくなる。なにかに苛立っているわけではなく、結局自分に何も残さないものをつまらないとして切り捨てる自分の辛抱のなさに呆れるというか、そういうところ自分のオタクとしての甲斐性のなさが滲み出ているのが嫌だ。薄情すぎる。でもどんなものでもそのほとんどが多面的だから、おそらく日常生活で誰かを好きになったりするときも顔だけじゃないなにかがある。相手が芸能人で、普段のことはなにも知らないにしても、私は私の価値判断の中で取捨選択している。私は媒体(メディア)として俳優を見ているし、それがうまく機能していないのであれば理想(アイドル)として見続けることができない。

でも同時に、「これしかない」というものを示してくれた時、理想が絶対になる。この感覚を私はいつまでも求めている。私は自分のこの感覚だけを信じるし、結局のところそれは俳優を信じているのではなく、所詮自分の中の考え方や理想、つまり自分を形成するものを信じているんだろうなと思う。こんな私が100%で好きだと思える自分以外のものが現れるんだろうか。今は想像もつかない。