取り留めもない

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【感想文の練習】『少女七竈と七人の可愛そうな大人』桜庭一樹

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 ところで私は余韻の残る話が好きだ。というより、余韻の残らない話など認めない。どれほどそれが極端かと言うと、読み終わって何も残らなかった本を手にもって、古本屋に直行するほどに。それほどまでに、話の余韻というのは私の中で確固たる地位を築いている。いわば話の核と言っても過言ではない。その余韻の残る話の中で、時折思い出しては読み返す筆頭が『少女七竈と七人の可愛そうな大人』だ。

話について触れる前に作家について思うことを言うと、桜庭一樹という作家は、女の汚いところと醜いところと、そして純粋なところを平易な表現で表現するのを得意とする作家だ。中学、高校時代は図書館に入り浸って彼女の本を読んでいた。特に『ファミリーポートレイト』や『荒野』を読むと女という生き物についてこんなにまあつらつらと書いたものだと感心さえした。

 それでいて読んでしまうのはとても簡単で、例えば桐野夏生の『I’m sorry,mama.』のような淀んだ後ろ暗さはない。ただただ、生きている女を日常に近い表現でわかりやすく書く。それが、この作家の特徴。 

I’m sorry,mama.

I’m sorry,mama.

 

 そこで『少女七竈と七人の可愛そうな大人』戻る。正直に言ってしまえば、ある一定の層を「狙った」文章が続き、それでいてとても読みやすいためにさらさらと脳内に取り込まれていく。麗しい少年少女と一人称で話す犬。聡明な老人と危うい魅力を持つ母親。どの登場人物も、愛するに値する魅力的な人々。時勢が合ってあざとい編集者に見つかれば、漫画化などのメディアミックスは必至だったんじゃないだろうかとさえ思う。まあ、そんなことは杞憂でしかないのでここらへんで引き上げて、この作品の魅力的であり意識的な部分について書いてみる。

少女・七竈は若さに対して過信することができない自己を持っている。それは、彼女の母親を見ていて学んだ処世術と言っても良い。彼女は若く美しい。かつての母親がそうだったように。だからこそ、自分も老いて「ただの女」になることを知っている。そのまま田舎の町に居続けるのであれば、それでも美しい女としてチヤホヤされたかもしれない。しかしながら、七竈はそんなしがらみにまみれた空虚な特権ではなく、幼い時代の唯一無二で純粋で危険な記憶を「美しい過去」として永遠にすることが望んだ。夏蜜柑の皮を齧った時のような苦さと青さ、そして七竈が美しい過去を作るまでの過程を覗いてしまった背徳感が余韻となって残る。 それがこの話に惹かれる所以だった。

少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)

少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)