取り留めもない

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Patch8番勝負其の五『逆さの鳥』

縁があって2014年に行われた Patch8番勝負其の五『逆さの鳥』を観ることができた。事前に下記のサイトなどで作品の内容を知る度に、「ああ、絶対観たい」と思っていたからまずは各所に感謝したい。

www.watanabepro.co.jp

 

まだ一回しか観ていない。でも、その一回目が一番いろんなものを感じられるタイミングだと思っている。今回もやっぱりそうだ。疑問点、不明点、その他渦巻く感情総てが今の感想になっている。極めて私的で、極めて静的な作品だった。以下、考察という名の捏造。

 

父親を殺そうと田舎に戻った越智(松井勇歩)が見つけた「逆さの鳥」。不格好に足を、翼を取られて逆さになってしまった鳥。無様だと見つめるうちに、なんでそんなことになったのか、それは一体なんの鳥なのか、気になって仕方なくなる。なぜ越智がその「逆さの鳥」に神経を使ってしまうのか。そう考えた時に、その哀れな鳥を越智自身に重ねているからなのではないかと思った。どんなに愛を求めても、愛してくれなかった父親を憎む越智。父親についてパチンコ屋に行った思い出は決して哀しい思い出ではなく、彼にとっては父親に褒められた数少ない幸せな思い出だった。父親に愛されたいと思えば思うほど、殺したいに変換されてしまう。なかなか表現できない自分の内側(本懐)を、包丁という触れさせることのできないものの形で具現化させてしまう不器用さ。そのうち、その包丁で父親を殺したいと思えば思うほど、自分が殺される感覚に陥ってしまう。父親は自分の鏡のように見えない存在としてあり続ける。これが不安の波の第一波となった。

そんな越智の高校の同級生の河野(中山義紘)はそんな不安定な越智の本懐である包丁を前にして、自分自身をさらけ出すことを突き付けられる。河野は他人にも自分にも興味がなく、何もなさず何も言わず、それが当たり前だと思っていた人間。それなのに、鬼気迫る越智の素顔に恐怖し、その涙で今まで塗り固めていた感情の出口の土壁が崩れていってしまった。もう、総てをさらけ出し、それを誰かに肯定してもらわなくてはいけないような気がしてならなくなってしまった。だから、浅尾(三好大貴)に「自分自身を触ってくれ」と懇願した。越智のように本懐を誰かに触ってほしいと思ったが、河野には包丁がなく、それしかなかった。そうして越智から広がった不安の波は波状を広げ次に続いていく。

浅尾は自分自身をギラギラ光らせて、周囲に不安を降らせる越智のことをある程度理解している。その上で、なんとか彼を止めようと思うものの、自分の言葉は越智に届かないことを知っている。自分にできることを、とただそれだけを思っている。だから、河野に「自分自身を触ってくれ」と言われても拒まなかった。自分よりも越智に影響を与えられるであろう河野を救ってやれば、何か変わるかも知れないと思ったから。自分を捨てて、捨て身で自分と関わる人たちにぶつかっていく。無我夢中でもがけばもがくほど不安の波が大きくなっていく。

藤岡(竹下健人)は自分自身を放つ人物。意志を発信し、伝えることが人間として有益であると信じている。そのことは越智にとって羨ましく、コンプレックスが露呈することを恐れ、藤岡を拒む。それを受けて藤岡は自分の言動を顧みて思い悩む。自分が今まで正義だと信じてきたものが、もしかしたら他の誰かにとっては悪となるのかもしれないという当たり前のことに気が付いてしまい、それが不安となりさらに波立っていく。

サイドストーリー的ではあるが、松浦(岩崎真吾)は越智が帰ってきてからのこの一連の現象を気づかせる存在である。松浦は自分のこと、自分に起こったことを語る。基本的には自分のことを話している。居なくなってしまった痴呆の祖母の話。祖母は津波を恐れていた。いつ起こるかわからない津波から逃げて行ってしまった。今もまだ津波から逃げ続けているんだと松浦は思っている。そして、それに気づいてあげられなかったことを後悔している。皆を襲うこの不安の波は、越智を起点として波状となって重なって広がり大きな波になっていった。

この物語の最後、結局誰一人として何かを変えられたわけではない。まだ最初の場所から動き出すことができないままである。それでも、一度起こってしまった波から生まれた津波は彼らをいつか襲うだろう。その時、誰が生き残ることができるのだろうか。

 

 

 

参考にした文章は以下。

blog.goo.ne.jp

okepi.net