取り留めもない

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少年社中『リチャード三世』

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まずは余談

私は大学で英語演劇の翻訳を生業にしている先生のゼミだった。(異文化受容のゼミ)結構有名な人らしいと聞いてはいてけれどその頃演劇に全く興味が向いていなかったから、授業がある度に配ってくれるチラシも適当に目を通していただけだった。最後にゼミの研究費で先生が翻訳を担当した『ピグマリオン』を観に行ったくらい。でも、今となっては本当によく見かける名前で、あの頃忙しそうにしていた理由がよく分かった。ちゃんと授業は受けていたし、イギリスの劇作家のことは知識程度には学んだし、他にやりたいことがありたいことがあったから別に後悔はしてないけど、ひとつだけやっておけばよかったなと思うことがある。それはシェイクスピアの作品について基本的なあらすじと面白さを学んでおきたかったということ。今からでも遅くないとは思うけど、シェイクスピアのように長く愛される話をじっくり理解する時間と気持ちの余裕がない。そしてあったところで今現在感受性がゼロに近いからやっぱり学生の頃に読んでおきたかったと思う。

ということで、そんな私がシェイクスピアの『リチャード三世』を脚色した少年社中の『リチャード三世』をDVDで観た。長々と余談を入れたのは「原作を知らない」ということの言い訳をするためだけど、原作がある映画を観る時でも基本は内容を知らないまま観たい派の私がこんなに悔しいと思うのは結構自分でも意外。それも演劇には再演というものがあって、それが効果的に連鎖していくと知ってからオリジナルを知っているということに意味を感じるようになったんだと思う。全く知らないというのもそれはそれで面白いのかもしれない。でも、今回で言うと「薔薇戦争」「赤と白」というキーワードから導いたのは三池崇史の『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』だったからやっぱりオリジナルは理解しておいた方がいい。あれは全く別物だ。

少年社中『リチャード三世』の物語

少年社中 第30回公演【リチャード三世】

 時は薔薇戦争の最中の15世紀イングランド。その国の殿様であるヨーク家のエドワード四世の弟のリチャード三世は心優しい青年で、敵対するランカスター家との戦いでも心を痛める性格だった。しかし、そんなリチャード(白リチャード)の前に自らを「リチャード三世」と名乗る心も体も醜い姿をした男(黒リチャード)が現れる。黒リチャードは白リチャードに代わって敵を蹴落とし、味方を裏切り、殿様の座に上り詰めていく。そんな「自分」の姿に苦悩する白リチャードに、以前呪いをかけたという女は「お前は悪人(黒リチャード)の中の僅かな『良心』として生み出してやったのだ」と伝える。実は、心も体も醜い姿をした男が元々のリチャード三世だったのだ。それを知った白リチャードは「それならば苦悩しよう」と心に決め、黒リチャードを追いつめる。そうして、二つに分かれていた一つの魂は自らとの戦いを経て亡霊たちの前に散り、ランカスター家のリッチモンドが次の殿となった。

脚色について

オリジナルではリチャードは醜い男として一人存在する設定とのこと。 少年社中版では一人の男の中で「心の葛藤」を二つの人格で表現するという方法を取っているので、この点が大きな違い。オリジナルを知ってる人はまず白薔薇と黒薔薇がいるというところで考えるけれど、私のようなド新規は予習もしないと「リチャードは心優しい人物」と最初刷り込まれる訳です。でも、そのことが話の核であり、一番の展開なので知らない人も十分楽しめたらんじゃないかと。そんなことお前に言われたくないって感じだと思いますけど。私が他に観たのが『パラノイア★サーカス』だけだから全体を見てとは言えないけど、少年社中さんは「実は〜でした」という世界の反転が好きなんだなぁというイメージ。とはいえ、絶望する反転ではないので安心して観られる。個人的には絶望する方が好きだけど。

 演出美術について

奥が高い斜面になっていて、その一番高いところには大きな十字架があるだけの舞台。ヨーク家とランカスター家は白と赤で分かれ、さらに白リチャードと黒リチャードは同様に白と黒で分かれている。ランカスター家からヨーク家にやって来たエリザベスらは白と赤の衣裳。そのどれも、日本の袴や着物、中国の民族衣装の東洋の要素が入っていて、使う刀は洋刀ではなく日本刀。『パラノイア★サーカス』でも思ったことだけど、社中さんは衣裳や美術にこだわってくれて本当に有難い。そしてとても好み。身につけるもの、置いてあるものひとつにも思いを馳せることが出来る。形式美。その中でもリチャードの衣裳は白黒とも技が細かく美しい。白リチャードの衣裳には「少年性」を、黒リチャードには「厳格さ」をそれぞれ感じる。

闇の中で薄く見える十字架はこの物語全体の業の深さの象徴なのか。ずっとそこにあって忘れてしまうけど、ある一瞬暗闇から浮かび上がると恐ろしく、重々しい雰囲気になっていく。シンプルの中で効果的な表現だなと思う。

二人のリチャード三世

この物語の鍵になるのは二人のリチャード。白リチャードは人に愛され、愛する「良心」。黒リチャードは人に疎まれ、憎む「悪人」。けれど、見ているうちにそうでもないのかもしれないと思った。例えば、完全に正論をいう人のことを面倒だと思ったり、逆に人間の汚いところを隠さない人のことを愛おしく思ったりすることがある。はじめのうちは白リチャードの真っすぐな言葉に打たれもするが、本当に人を動かしているのは黒リチャードの嘘であっても強い言葉。結局は皆何かに流されて行く方が楽だし、それを掴んでいる人が総てを得るようになっている。そこに利己的でるか否かは関係ない。

作品の中で二回白リチャードが心を決める場面がある。ひとつは黒リチャードと戦う決心するシーン、もうひとつは悪に染まると決心するシーン。この山場を越える度にふたつの人格がひとつになっていく。それも今まであれほど悪や争いを憎んでいた白リチャードが正しいと考えてとった行動のせいで多くの人が死んでいく。そのきっかけになるのはエドワードとジョージを失った母との確執。自分の映し鏡のようだと母はリチャードを蔑む。リチャードはそれを長い間仕方ないと諦めていたのに、二人の優秀な兄の死のせいで再びその冷ややかな母の目を突きつけられてしまった。そんな状況でリチャードには「殿様になる」ことしか残されていなかった。この部分を二人で演じ分けるのがすごい。池田純矢はどこまでも真っ直ぐな「良心」を、山川ありそはひねくれてもう元には戻らない「悪」を体現し、ただそれは表裏一体であるためにリチャードは人々から愛された。そして、それと同じだけ憎まれた。リチャード三世という人の愛して憎むべき人柄をとても魅力的に表現していたと思う。

池田純矢という人

「映画が好きで俳優になったし、デビューも映画だったし、舞台は苦手でした」という俳優さんは結構よくいる。そして、池田純矢もそうだったという。でも、私は舞台に立って生身で観客に立ち向かう彼が好きだし、その熱意をジンジンと感じる瞬間がとても楽しい。この『リチャード三世』でも、彼は舞台の上で一身に役を生きていた。熱の塊だった。感情が色になって見えるようだった。私は彼の「演技」が好きだと実感した。だからこそ、今年はいろんなところで見られたらいいなと思う。それがひとつは『ライチ☆光クラブ』だった。彼の姿は観た人の脳裏に焼きつく。リアルで非現実的な映像に負けない一挙手一投足。それをできるだけ総て見つめていたいと思っている。